自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

映画『家族ゲーム』と僕の人生

映画内容のネタバレあるので、見たくない方は帰還するべしっ!

 

4日前まで僕は静岡の実家に帰省していた。

 

とあることで実家で親と喧嘩になり、「今まで自分がやってきた教育がばからしく思えてきたわ!」という捨て台詞を放たれた僕は、喧嘩の収拾がつかないままに東京の一人暮らしの家へ戻った。

 

けっきょく親の理想の子どもにならなければ親は怒るんだよな…。

 

21年の人生の中でこんなことを考えるのはもう何回目だ。

 

親の主観からしたら善意100%の教育を提供しているつもりなのだろうが、所詮親子なんて本音を隠しながらお互いの顔色をうかがって成立する共同体なんだよな…。

 

と、善意と実態のギャップにどうしようもない悲しみを覚えながら、近くのGEOで昔見かけた『家族ゲーム』という映画の題名が浮かんだので、すかさずレンタルして見てみた。

 

見た後に調べて知ったのだが、どうやらかなり有名な傑作映画らしい。

 

そんなことも知らず、何の前情報もないまま、どんな『家族ゲーム』が繰り広げられるのだろうかと期待して上映開始。

 

横に長いテーブルに横一列に座りながらご飯を食べる家族が登場した。

 

一家団欒和気あいあいの仲良し家族のイメージを皮肉った、『家族ゲーム』の象徴の構図のようだ。

 

この家族は、父・母・兄の慎一(高1)・弟の茂之(中3)の4人家族。

 

話の大まかな流れは、受験勉強に不適応を起こしている中3の弟の高校受験のために家庭教師として大学7年生の吉本を雇い、受験勉強を中心とした家族と学校の日常と家庭教師との関係を描いていくといったような印象。

 

横一列に並んで食事をする家族の会話は9割以上、弟の受験勉強に関する話。

 

家の中は終始薄暗く鬱屈とした雰囲気が漂っている。

 

息子の受験を全て母親にまかす父の口から「俺が関わったらバット殺人が起きる。」という言葉から連想されるように、1980年に起きた神奈川金属バット両親殺害事件を背景に、受験競争の中に置かれた家族の閉塞感が表現されているようだ。

 

家族ゲーム』の主題としての受験競争。

 

この組み合わせに、どうしても自分の人生を思い返さずにはいられなかった。

 

僕は一応地元では頭が良かった方なので、高校は進学校に進み、受験勉強も順調に進んでいた。

 

順調に進んでいる間は、家族との問題もそこまで発生しない。

 

しかし、僕は現役で受験を失敗。

 

特に大学に行くことに意味を感じていなかった僕は、公務員試験を受けよう親に相談する。

 

『私は情けないよ、今までの教育はなんだったんだよ…。』

 

と泣き崩れる母。

 

これが僕の人生で最も「親の理想の子どもにならなければ怒られるのだな…。」と痛感した日だった。

 

結局、浪人を決意することに。というより、それ以外に許される道はなかった。

 

予備校通いは、そこそこのお金がかかる。

 

裕福ではない僕の家庭は、お金に関して敏感であったし、なにより、現役で順調に進学するというルートから逸脱したことによる周囲からの視線を親が気にしてか、家族内の閉塞感は明らかに増した。

 

勉強をしてなかったり、予備校を休んでいたりすると、『たくさんお金かかってんだよっ!』と怒りの声が降ってくる。

 

特に意味を見いだせない勉強。

 

勉強をしないことに対する圧力。

 

毎日の閉塞感。

 

そんな状態に適応せざるを得ない自分。

 

いつしか僕は、勉強以外のことをしてはいけないという強迫観念に襲われるようになった。

 

朝起きてすぐ勉強を開始し、夜は寝るまでイヤホンで授業を流す。

 

友達と遊ぶのは時間がもったいない。

 

むしろ、予備校で友達を作るのすらいけないんじゃないか。

 

そんな状態で一年間を過ごす。

 

全てが受験の偏差値に向けた生活となる。

 

そこには他の価値が介入する隙間はない。

 

世の中には偏差値以外の価値なんてたくさんあるのに、それに気付くことすらできない。

 

幸いなことに『家族ゲーム』では、家庭教師の吉本が茂之勉強を見る間に、植物図鑑を読んでいたり、茂之に喧嘩を教えたり、茂之の好きなジェットコースターの模型で一緒に遊んだりと、偏差値以外の価値の世界を過ごしていたように思える。

 

そういった場面が、日常の家庭内の鬱屈した雰囲気とは違い、白銀の世界のように描写されていたのが印象的であった。

 

大学7年生という一般的なルートから外れていた吉本は、受験勉強とその延長線上の一般企業への就職ラインの価値観からはみ出すものを持っていたから、多様な価値の世界を受験生の茂之と過ごすことができたのだろう。

 

茂之は最終的に難易度の高い第一志望に合格することができた。

 

合格祝いとして家族と家庭教師の吉本と5人でパーティをした時に、相変わらず勉強の話をする家族の中、吉本がワインやらマヨネーズやらを食卓にまき散らし、パスタなどをぶん投げまくるシーンには爆笑させてもらった。

 

最後に机ごと引っくり返した時の爽快感は忘れられない。

 

受験勉強の価値観にだけ囚われてしまっている家族を一掃してくれたような気分であった。

 

しかし、いくら吉本が受験勉強以外の価値の世界を茂之と過ごせたからといって、茂之は受験勉強の価値の世界に浸食されていた。

 

それを象徴するラストシーン。

 

暖かい日差しが差し込み、物音の一つしない静寂なリビング。

 

そこで母親が退屈そうに作業をしている。

 

そんな日常の静寂を、突然ヘリコプターの大音量が破壊する。

 

ヘリコプターの音のあまりの近さに恐怖を覚えた母親は、子ども部屋にいるはずの息子たちを呼ぶ。

 

返事がない。

 

日常の静寂さと、非日常的なヘリコプターの大音量の織り成す不気味さの中、母親が子供部屋のドアを開ける。

 

そこには同じ部屋で寝静まっている二人の兄弟が。

 

寝ていることを確認し安心した母親はリビングの机に戻り、昼寝を始めたところで映画が終わった。

 

この最後のシーンの異様な静寂と、ヘリコプターの爆音の暴力性。

 

これこそが受験勉強の価値の中で創られたものなのだなぁ、と思った。

 

ただの昼下がりのお昼寝の光景とも見えるのだろうけど、僕にはそうは思えなかった。

 

昼寝をしている兄弟、昼寝を始める母親、全ての人間に生気を感じることができなかった。

 

それもまた、僕の自分の経験に基づいている。

 

先に述べたように、僕は浪人したことで受験に価値のあるもの以外のことに目を向けることができなくなった。

 

常に受験に価値のある基準からものごとを考え、自分の中の価値の無い面を見つけていく。

 

これは価値がない。

 

こんなことを思っていてはダメだ。

 

こんなことをしていてはいけない。

 

閉塞した状況下で、僕が目指していた価値は理想でしかなく、その理想から見た自分はいつもダメな自分であった。

 

そして理想は理想であるがために、一生そこへは到達できない。

 

つまり、そのままでは一生ダメな自分のままなのだ。

 

大学に合格し、浪人生活が終わってからも、この状態は未だ治らない。

 

変わったのは理想を置く場所が、受験勉強の世界から自分の将来の世界になっただけだ。

 

友達との飲み会に何の意味があるんだ、趣味をやることに何の意味があるんだ。

 

何かに憑りつかれたように、僕は大学生活を送っている。

 

自分の行動や思考の無駄な部分だけを見つけるだけの生活をしていると、あらゆることに無気力・無感動・無表情になっていく。

 

何に対しても、身体が反応しない。

 

そんな感覚を、ラストシーンのあまりの静寂さに照らし合わせてしまった。

 

そして、その静寂さは、ヘリコプターの爆音のような暴力性を常に内に含んでいるのだ。

 

僕はこれからも無気力・無感動・無表情で、暴力性を内に含みながら生きていくのだろうか。

 

そんなことを考えさせられた映画であった。

 

 

 

 

 

 

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