自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

現実をぶっ壊したい衝動

上山和樹『「ひきこもり」だった僕から』を読む - ファッションひきこもりによる自分研究

 

上の記事で書いたように

 

 上山和樹さんの「ひきこもり」だった僕からを読んで自分のことを考えていきたいと思います。

 

この本は、こんな文章から始まります。

 

 

僕は、自分の意思でこの世に生まれてきたのではない。

 

気がついたら「ここにいた」。

 

まわりに、得体の知れない世界。

 

いつの間にか成立していた、<自分>というもの。

 

引き受けようと、努力した。

 

 

 

「与えられた自分」を

 

「自分で選び取った自分」に転化させようとして失敗し、

 

途方に暮れてしまったのが

 

あの状態だった……。

 

僕も、何度も何度も

 

「なんで生まれたくて生まれてきたわけじゃないのに、頑張って生きていけなきゃいけないんだ。」

 

と考えながら生きてきた。

 

というより、今もその問いばかり考えている。

 

多分、「なんで生まれたくて生まれてきたわけじゃないのに…」

 

とか考えてしまう人は、あらゆることに意味を感じずに生きているのだと思う。

 

意味を感じながら生きている人は、

 

生まれたくて生まれてきたわけではない人生をどう生きていくか

 

なんていう疑問は浮かんでこない。

 

浮かんできたとしても、とりたてて考えることでもないと感じるだろう。

 

ゼミの先輩に、映画を観ることを生きがいに幸せそうに生きている人がいた。

 

僕は映画を見ても

 

『この映画を見て何の意味があるんだろう?』

 

ということばかり考えてしまう。

 

もちろん、映画を見れば何かしら心に訴えてくるもの生じる。

 

それでも、

 

『この生まれてきた感情は僕が生きていく上で何の意味があるのだろうか?』

 

と考えてしまう。

 

そして結局、その意味が見いだせない。

 

だから僕は自分は映画を観ても楽しめてないんだろうなぁ、と考えてしまう。

 

そんなことばかり考えているので、映画を生きがいに楽しそうに生きている先輩が、とても輝いて見えた。

 

羨ましくてしょうがなかった。

 

だから僕は思い切って、その先輩に

 

『生きる意味ってなんなんですか?』

 

と聞いてみた。

 

『映画が楽しいから!だって自分が生きてないと映画見れないでしょ!』

 

と応えてくれた。

 

その後も、映画の楽しさについて語ってくれた。

 

正直、何も頭の中に入ってこなかった。

 

映画に意味見出してない僕が、映画を見るのが生きる意味だって言われても、どうしようもないからね。笑

 

でも、この時に

 

意味の世界を生きている人は、生きる意味を考えなくてもいいんだ。

 

っていうことが理解できた気がする。

 

意味の世界を生きている人と、生きる意味を考えてしまう人。

 

生きる意味を考えてしまう人からすれば、同じ世界に属している人間同士とはとても思えない。

 

それは上山さんのこんな言葉に表れていると思う。

 

時空間はすべて、動機を失ったままノッペリとしたまま仕方なく存在しているようにしか見えない。倦怠感の極致。みんな、なんでそんな、「動機がある」ような顔をして生きていられるんだろう。(p58)

 

 

人間として生きていること自体が耐えがたいことなのに。なんでみんな知らん顔しているのか。「耐えられる」ような顔をしているのか。(p75)

 

さっきの例で言えば、僕は映画を観ることの意味を考えてしまう。

 

一方で、先輩は映画を観ることに意味があることは自明であるかのように生きている。

 

僕からしたら意味がない映画を観る行為が、先輩には生きることの動機になっている。

 

これは別に映画に限ったことではなく、日常のあらゆることにも当てはまる。

 

例えば僕は、一昨日、大学知り合いの女性にたまたま道端で遭遇し、

 

「ねぇ見て!髪切ったの!」

 

と言われた。

 

僕は少し驚いて

 

「おぉ、確かに髪が短くなっているね。」

 

と淡々と事実を述べることしかできなかった。

 

僕の頭に浮かんできたのは

 

「髪切ったの!と僕に言うことで君は何を伝えようとしているんだ。」

 

ということだった。

 

なぜなら僕は、自分が髪を切ったことを人に報告することに意味が無いと思っているからだ。

 

でもそんなことは聞いちゃいけないこともわかっている。

 

でも、「わぁ!かわいいねぇ!似合ってるねぇ!」なんて思ってもないことを言う気にもなれない。

 

だから淡々と事実を述べるしかできなかったわけで。

 

こういったことが起こる度に、なんでこの人たちは意味の無いことを楽しめるのだろうか。

 

それを楽しめない自分はなんなのだろうか。

 

と考えるハメになる。

 

そんなどうしようも無い気持ちこそが

 

みんな、なんでそんな、「動機がある」ような顔をして生きていられるんだろう。(p58)

 

 

人間として生きていること自体が耐えがたいことなのに。なんでみんな知らん顔しているのか。「耐えられる」ような顔をしているのか。(p75)

 

という言葉を生み出したのだろう。

 

こんな思いが積み重なるとどうなってしまうのか。

 

「現実世界の何か」が耐えられないというよりも、<現実>が<現実>であること自体が耐えられなかった。寝ていても、起きていても、一瞬の隙もなく永遠に<現実>は<現実>でありつづけている。絶対に見張りをやめてくれない、泣いても叫んでも絶対に<現実>であることをやめてくれない。そのこと自体への激怒のような、取りつく島のない感覚。(p85)

 

<現実>が<現実>であること自体が耐えられなくなるのだ。

 

僕はこの本を読む中で、ある感覚を思い出した。

 

それは、タイトルにもある通り、現実をぶっ壊したい衝動です。

 

僕は中学の頃、野球部でキャッチャーをやっていたのだけど、

 

相手の攻撃の場面で、ここで打たれたらこの試合負けるぞっ!って時に

 

僕がボールをピッチャーに返すのでなく、外野の遥か彼方にいきなり遠投をして

 

相手のランナーがホームインして試合に負けるってことをしたら監督とか保護者とかどんな顔するんだろうか…。

 

とか

 

道端で通りすがる人にいきなり

 

「ワァァァッ!」

 

って大きな声で怒鳴ったらどんな顔するんだろう…。

 

とかいうことを考えたりしていた。

 

もちろん、こんなこと考えるのは自分だけかもしれないし、ヤバイことなので周りには言えなかったけど、

 

もうその頃から<現実>が<現実>であることに耐えられない気持ちは芽生えていたのかな、と思った。

 

最近、スタバに爆竹を投げ込んで、それをニコ生で放送した事件があった。

 

(1/2) スタバに爆竹投げ込み、ニコ生中継 また犯罪自慢、なぜ懲りないのか : J-CASTニュース

 

 こういうのも<現実>が<現実>であることに耐えられないということと繋がっているのだと思う。

 

 特にコーヒーのおいしさとかわかるわけでもなさそうな人たちが、スターバックスっていうブランドだけで群がっている。

 

 意味を感じない人間にとっては、そういうのが一番意味わからないから。

 

 だから、この事件の場所がスターバックスだったってこと、スターバックスの日常の中に爆竹という非日常を投げ込まれたことを考えると、

 

 これも<現実>が<現実>であることの耐えられない人が起こしてしまったことなのかな、と思った。

 

 こういう風に<現実>をぶっ壊したい衝動っていうのは犯罪とか人を傷つけることに容易に繋がってしまう。

 

 もちろん、そういう人は少数派だ。

 

 多くの人は、この著者の上山さんや僕のように、<現実>をぶっ壊したい衝動を持ちながらも、そんなことできるわけはなく、ただ<現実>に怯えながら生きていくしかないのだろう。

 

 その根本にはやっぱり、生きる意味を感じない人たちが自分の切実な思いを表出する場が<現実>にあまりにも無さ過ぎる、という問題があるのだと思う。

 

 だから、<現実>との接し方が、その破壊か、もしくは<現実>との接触を断つという「ひきこもり」しか無いのだと思う。

 

犯罪とか人を傷つけること、もしくはひきこもること以外に、意味に飢えた人たちが自分の切実な思いを表現し、それを共有できる場を、<現実>の中に創っていくことが必要なのかな、と思った。

 

 

「ひきこもり」だった僕から