自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

社会問題を語れるやつは幸せ者だ

 

上山和樹『「ひきこもり」だった僕から』を読む - ファッションひきこもりによる自分研究

 

現実をぶっ壊したい衝動 - ファッションひきこもりによる自分研究

 

 

上の2つの記事に引き続き、今回も、上山和樹さんの「ひきこもり」だった僕からの文章の中から、自分のことを考えていこうと思います。

 

 

 前回の記事でも取り上げた、この本の冒頭の文

 

僕は、自分の意思でこの世に生まれてきたのではない。

気がついたら「ここにいた」。

まわりに、得体の知れない世界。

いつの間にか成立していた、<自分>というもの。

引き受けようと、努力した。

 

「与えられた自分」を

「自分で選び取った自分」に転化させようとして失敗し、

途方に暮れてしまったのが

あの状態だった……。

 

前回は、最初の3行から自分のことを考えました。

 

意味の感じられない得体の知れない<現実>の耐えられなさ。

 

そして、その<現実>をぶっ壊したくなる衝動。

 

振り返って見ると、そんな<現実>をぶっ壊したくなる衝動を抱えながらも

 

なんとか<現実>に参加しようと

 

望んでも無いのに生まれてしまったこの「与えられた自分」を

 

「自分で選び取った自分」に転化させようと必死に努力していた自分も確かに存在していました。

 

意味の感じられない<現実>

 

その中に存在する、存在意義の無い<自分>

 

そんな僕の目から見て、自分が<現実>にアクセスできる道は何かと考えた時に思い浮かんだのは

 

「困ってる人の役に立つこと」でした。

 

一番わかりやすいのは、社会問題に接することだった。

 

こんな存在意義の無い自分でも、人の役に立つことが目に見えれば、少しは存在が肯定される気がしていた。

 

大学1年が終わり、2年となった時、何か僕は焦っていた。

 

大学での1年間が終わったのに、僕は何も成長していない。

 

周りの人は何やらアクティヴに行動しているのに、僕は家と大学の往復だけ。

 

<現実>は一向に意味を持たない。

 

今考えても本当に情けないことではあるけど、僕は大学2年の春に、そんな理由から福島の農家の復興ボランティアへ行った。

 

その時は、日本の未来のためだとか、困ってる人は助けなきゃだとか、思い込もうとしていたけど、

 

今考えると、明らかに自分の存在意義を見出したいがためだけに行ったのだ。

 

困っている人を助けたいと思い込んでいた自分が困っているだけだった。

 

ボランティアをして、現地の人にお礼を言われた。

 

『若い人が来てくれるのは本当にありがたい。』と言われた。

 

それを言われた時は、自分に存在意義が感じられた。

 

誰かに伝えたいほど嬉しい思いが芽生えたのを覚えている。

 

でも結局僕はは何も変わっていない。

 

帰りのバスの中で、みんながボランティアの感想を言い合う。

 

みんな立派なことを言っている。

 

何か熱い思いが溢れる車内。

 

相変わらず僕は、

 

『なんでこの人たちはこんなに熱くなれるんだろう、意味わかんない。』

 

と考えているだけだった。

 

それでもどこかで、僕は<現実>にアクセスできる道をまだ探していた。

 

ボランティアで自分が熱い思いになれなかったのも、

 

『僕は現場で行動するタイプの人間ではない』

 

と思っていた。

 

というより、思い込もうと努力していた。

 

現場で行動するタイプの人間ではないと思い込んだ僕は、今度は社会問題について考える勉強会に参加した。

 

自分の存在意義を求めて。

 

そこでは、みんなが自分が当事者である社会問題から、そうでない社会問題まで議論を繰り広げていた。

 

なんでこの人たちはこんなに話すのだろうか。

 

みんな自分の問題関心を話し出すけど、それでお互い何が得られているのだろうか。

 

みんな真剣に頷き合ってるけど、一体何をわかちあっているのか。

 

全く持って意味がわからなかった。

 

結局そこでも、僕は<現実>へアクセスすることができなかった。

 

上山和樹さんの本の中にも、同じような経験談が出てきた。

 

友人たちの勉強会に参加したり、マルクスを読んだりもした。

 

しかし、僕が決定的に感じている恐怖のような空虚感、

 

「人間は、結局はどこにも救いがない」という見捨てられた感覚を取りあげてくれる知人はいなかった。

 

思想家たちの言葉の中にも、それが見つけられなかった。

 

「まず、社会問題」

 

最初からボタンをかけ違っていて、自分の一番切実な苦しみはつねに放置されている、そんな感じ。」(p54)

 

これを読んで、僕が勉強会で感じていたことは、こういうことだったんだな、とわかった。

 

<現実>に意味を感じられない人間が勉強会で最も関心があることは、

 

「なぜあなたたちは、勉強会なんかに参加して議論をしようと思うのですか?

それには一体何の意味があるんですか?」

 

ということだと思う。

 

でも、勉強会は誰かがレジュメを作ってきて、それについて議論をするので、僕が一番聞きたいことは言ってはいけない場なのだ。

 

自分が一番聞きたいことを頭に留めながら、意味の感じられない議論を何時間も聞き、

 

時には意見を求められたりもするので、僕は疲弊しきってしまった。

 

<現実>へアクセスしたいがために、疲弊してもあきらめず、3回ほど勉強会に参加したが無駄だった。

 

勉強会の後には懇親会が毎回あったが、その前の議論で疲弊しきった僕は参加する気にもなれなかった。

 

懇親会に向かう楽しそうな人たちを横目に、疎外感を感じながら帰ったことはよく覚えている。

 

社会問題を語れる人は、きっと、<現実>にアクセスできている人なのだ。

 

社会問題を語っている人はもちろん当事者の人もたくさんいるし、その人たちが決して幸せと言える生活をしているわけではないことはわかっている。

 

そうじゃなければ社会問題とか社会運動には関わらないだろう。

 

それがわかっていながらも、そういったことに参加できている時点で、僕からみたら幸せな人間に見えるのだ。

 

ただのワガママな意見に聞こえるかもしれない。

 

けど、こういったどうしようもない気持ちを理解してくれる人がいなければ、

 

<現実>に参加できずにひきこもるか

 

自分にも周りにも嘘をつきながら<現実>に参加し、疲弊しながら生きるのか

 

のどちらかしかないと思う。

 

だから、気分が悪くなる人がいることも承知で、

 

「社会問題を語れるやつは幸せ者だ」

 

と言っておきたかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

「ひきこもり」だった僕から