自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

『俺は多様な価値観を認める人間だから』とは何様だ

ゼミの飲み会で、先輩と話をしていた時のこと。

 

その先輩は、学校の先生を目指している先輩であった。

 

今の世の中では、学校では教師が子どもを評価するのが当たり前となっている。

 

その中でどうしたら子どもの価値観の多様性を損なうことなく評価していけるだろうか。

 

その先輩はそんなことを常日頃考えていた。

 

その飲み会でも、評価のことについて僕たちは話していた。

 

そんな話の中で、『〇〇先輩は凄い排他的だ!』

 

と、他の先輩の話を僕が持ち出した。

 

先輩は、冷静に僕の話を聞いてくれた。

 

僕は嬉しかった。

 

しかし、話の終盤で

 

『まぁ俺はあいつとは違って、多様な価値観を認める人間だからさぁ。』

 

と先輩が言ってきた。

 

この言葉が僕にはずっと引っかかっていた。

 

自分は多様な価値観を認めることができる。

 

そう断言できる立場はどのような立場なのだろうか。

 

その状況において、いろいろな人の価値観が認められてるか、認められてないか

 

これを考える上で大事なのはそれぞれの人の主観ではないでしょうか。

 

その人が認められたと感じているか感じていないかが決定的なものだと思う。

 

『俺は多様な価値観を認める人間だから』

 

というのは完全に、自分自身が認める存在となっている。

 

まるで神様みたいな立ち位置だ。

 

僕たちは、ある価値観を表明する時、誰かの価値観を排除する可能性を生み出してしまう。

 

例えば、

 

『俺はメロンパンよりカレーパンが好きだ。』

 

と言ったとする。

 

これが価値観の排除に繋がることは、現実的にはほとんどない。

 

けど、絶対に誰の価値観も排除しないとは言えないと思う。

 

もしかしたら、カレーパンに何等かのトラウマがあり、カレーパンのおいしさを饒舌に語る人に近づけず、心の中で怯えている人がいるかもしれない。

 

心の中の怯えというものは見えにくい。

 

外から見たら、全く気付かなかったりする。

 

そこは一見、多様な価値観が認められている場所に見えるかもしれない。

 

でも、怯えてしまっている人からしたら、自分の価値観の居場所はそこにはない。

 

そういった見えない部分のことも考えたら、多様な価値観が認められていると断言することなんてできないのだ。

 

僕たちは、ある価値観を表明する時、他の価値観を排除する可能性をどうしても生んでしまう。

 

そして、その可能性は時に、全く自分の目に見えなかったりする。

 

そういう見えない部分に対する想像力を失わせてしまう立場こそが

 

『俺は多様な価値観を認める人間だ』

 

という立場ではないだろうか。

 

結局のところ、自分の目の前にいる人間の価値観が認められてるか認められてないかなんていうことはわからない。

 

目の前にいる人間が

 

『君といるとき、私は認められていると感じる』

 

と言ってきたところで、それが本心かもわからない。

 

本心だったところで、それが永遠に続く確証はどこにもない。

 

『俺は多様な価値観を認める人間だから』

 

なんて言ってないで、

 

目の前にいる人間の価値観が認められてるか認められてないかは全くわからない

 

というところからスタートする方が現実的ではないだろうか。