自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

僕の中にいる大人たち

『自らのうちに「内面化された」二重性に苦しむ。自由でないことに気づく。

本来の自分ではないとに気づく。自由になりたい、しかし、自由になることは恐ろしい。

自分は自分であると同時に、抑圧者という意識が自らのうちにある。

だから、その闘いは、引き裂かれた自分自身、つまり自らの二重性との闘いである。

疎外を克服するか、疎外された状態を続けるか、規範に従い続けるか、他のオプションをとるか。

観察するだけの人間になるか、行動する人間になるか。見物人を決め込むか、行為者となるか。

自ら行動するか、抑圧者の行動から自分も行動したいという幻想をもつか。

葉を発するか、何も言わないか。何も言わない、とは、

創造と再創造を繰り返して世界を変えていく力を去勢されるということである。』

(「被抑圧者の教育学」著・パウロ・フレイレ 訳・三砂ちづる

 

 

 

2日前にゼミがあった。

 

ゼミに参加してみて1年。

 

相変わらずゼミをやる意味がよくわからない。

 

前回のゼミは、ある学校のある教室での子どもたちの学習が分析された文献を読み、その感想を言うだけだった。

 

特に指されることもなければいつもゼミで発言をしない僕だけど、教授に

 

「お前から感想を言え」

 

と言われたので、文献を読んだ感想を言った。

 

話始めた途端に足が震えだす。

 

震えが身体を伝わり、終いには指先まで震える。

 

心臓が高鳴り、身体が熱くなる。

 

耳の辺りが一番熱い。

 

口は思うように動かず、なんでもないところで噛む。

 

同じ言葉を同じように3回も噛む。

 

話してる最中はもはや誰の顔も認識することができない。

 

周りの人の顔を見ている余裕がない。

 

いや、多分見ているのだろうが、見ていることを理解する余裕がない。

 

周りの人が自分の話を聞いてるかなんてどうでもよくなっている。

 

話し始めた瞬間から一人の世界。

 

そこには誰もいないはずなのに、僕は震えている。

 

まるで誰かに抑圧されているかのように。

 

誰もいない世界で抑圧されるなんてあるのだろうか。

 

一体僕は誰に抑圧されているのだろうか。

 

 

 

僕は、自分の意見を言うということが苦手である。

 

というより、あまりしたことがない。

 

学校で習ってきたのは、いつも答えがある問題であり、その正しい解き方である。

 

そこに自分の視点や独創性はいらない。

 

むしろ邪魔なものだろう。

 

小学校から高校まで一貫して、大人たちは僕が勉強ができれば喜んだ。

 

答えのある問題を、教えてもらった通りに解けば褒めてくれるのだ。

 

それは先生や親の愛だったのかもしれない。

 

でも逆に言えば、勉強ができなければ褒めてくれないのだ。

 

偏差値や点数だけで子どもを評価する。

 

その他に子どもの中にあるいろいろな能力や価値観には目をやらない。

 

それは死への愛なのだ。

 

子どもの可能性を奪い、死に至らせる愛なのだ。

 

そんな学生生活を過ごしてきた僕は、大人たちの愛によってもう死にかけている。

 

ゼミで意見を言う時に僕が戦っているのは、僕の中にいるそうした大人たちだと思う。

 

それは親かもしれないし、学校の先生かもしれないし、近所のおじさんおばさんかもしれない。

 

多分全てだろう。

 

そうした大人たちが、僕を抑圧しているのだと思う。

 

『自分の意見を言うな。』

 

『先生の言うとおりにしていろ。』

 

『お前の意見など聞いちゃいない。』

 

という風に。

 

それは僕が子どもの頃に聞いてきた

 

『成績伸びたねー!』

 

『勉強してえらいね!』

 

『優等生だね!』

 

といった言葉の裏返しなのだと思う。

 

もちろん、そんな言葉が聞こえてくるわけじゃない。

 

でも、僕の身体の震えがそれを物語っている。

 

子どもの頃から自分の意見を言うのが当たり前の環境だったら、震えるはずがない。

 

この震えに打ち勝てるか、自分の中の大人たちの抑圧から解放されるのか。

 

これはゼミで意見がしっかり言えるか言えないかどころの問題ではないと思う。

 

僕の一生にかかる問題だろう。

 

この抑圧から解放されないのなら、僕はきっとこれからも死にながら生きていくのだろう。

 

 

 

 

 

被抑圧者の教育学―新訳

被抑圧者の教育学―新訳