自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

論破はムズカシイ

Mannaさんのツイートから論破について考えようと思ったので書く。

 

 

 

僕の中では『論破』という言葉のイメージは悪い。

 

この言葉からは、間違った意見を言った人間に、自分の正しい意見を『ドヤァァア』と押しつける人間のイメージが浮かんでしまう。

 

Mannaさんは論破に高揚感を感じるらしい。

 

そしてそれは2つめのツイートにあるように、相手を知り、近づくために、自分のものの感じ方や考え方を表現し、自分の居場所を作ることから来る高揚感かもしれない。

 

その時についカッとなってしまうと言っている。

 

僕は論破する人の、内面をあまり見ず、カッという部分だけを見ていた気がする。

 

だから『論破』という言葉に悪いイメージを持っているのだと思う。

 

その裏には、Mannaさんが言っているような、相手を知りたい、自分を表現したい、という気持ちがあったかもしれない。

 

 

また、Mannaさんは、論破することで相手を滅茶苦茶に傷付け、溝を深めた経験もどうやらあるらしい。

 

相手と近づきたいのに、相手を傷つけてしまう。

 

論破というものは難しいものだ。

 

どういう時に論破を使ってもいいのだろうか。

 

2つめのツイートにある、「自分と異なる価値観を否定したり排除するために「論破」という手段を使うのではなく」という部分が大切だと思った。

 

多様な価値観を包摂することを目指すために、論破は必要なのだと思う。

 

 

僕たちは言葉を発することによって、常に自分の価値観を表現している。

 

無自覚のうちに、自明ではないことを自明なものとして考えてしまっているということが非常に多い。

 

例えば、大学に入学直後に知り合った人と会話をしたとき、キラキラした顔で

 

『サークル何入るのー!?』

 

と言われて、僕はこの人の価値観の中に自分は組み入れてもらえないんだろうな、と思ったことが何度もある。

 

もう相手の中では、大学生=サークルに当然入る者、という価値観が出来上がってしまっている。

 

『大学生のサークルなんて所詮不安を埋め合わせるために飲み会ばっかやりやがって、どうせそこにある人間関係なんかも表面的で、………』

 

と、人間不信絶頂だった僕が大学のサークルに対して抱いている偏見をぶちまけると、まるで自分とは違う種の生き物を見るような目で見られたりするのだ。

 

例えが悪かったかもしれないけど、相手が前提としている価値観の中に自分が含まれていないことなんて日常的によくあることだ。

 

そんな時はカッとなってしまう。

 

自分の存在感をアピールし、居場所を作りたいために論破するってのは、多分こういう時なのだと思う。

 

人が活き活きと生きるためには

 

『テメーの価値観は他の価値観を排除していておかしいんだよー!!!』

 

と、狭い価値観を論破することは必要だと思う。

 

でも、ただ狭い価値観を持っている人間を論破していいとは思わない。

 

自分の精神の安定のために、自己防衛として狭い価値観に固執している人もいる。

 

その人の価値観を論破するということは、その人の心を蹂躙するようなものだ。

 

多様な価値観を目指すためには論破は必要だと思うけど、

 

狭い価値観を持っている人間はみな論破するべき対象だ、という前提を敷くならば、

 

それこそ狭い価値観に陥ってしまっている、論破されるべきものだと思う。

 

僕のように屈折して狭い価値観に固執してビクビク生きている人間は、論破されると、ひどく傷ついてしまうのである。

 

別に多様な価値観を目指すために有効な手段は論破だけではない。

 

論破は場所と人を選ばなければいけないと思う。

 

多様な価値観を目指すために批判は必要だ、という価値観の共有ができている場所や人に限って、論破は有効なのだと思う。

 

 

 

こういったMannaさんのスタンスのおかげで考えることができたのであった。