自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

他者を消し去ることの副作用

 

昨日、ブログを更新したところ、OBSIDIANさんが次のようなコメントをくださった。 

 

 

OBSIDIANさんは、僕の心が見えているかのようなコメントをくださる。

 

存在意義を感じることができずに人生を営んでいる僕は、自分の意見を他者に晒し、

 

称賛でも批判でも悪口でも否定でもなんでも、他者から見られた自分を感じ取ることで

 

存在意義や世界のリアリティを獲得できるのではないかと、ブログを始めてみた。

 

これは今までの記事で散々述べてきたことであるけど、OBSIDIANさんはそんな僕の考えを汲み取って、リプをくれたように思える。

 

僕のブログから影響を受けたということを僕に伝えてくれた。

 

それは僕が他者に影響を及ぼしたというとてもわかりやすい証拠であり、その中で僕は自分の存在を実感することができる。

 

だから、このようなリプをもらえてとてもうれしかった。

 

もちろん、他にもリプやコメントをしてくれる人がいて、それを見るたびに僕は嬉しくなる。

 

しかし、自分が人に与える影響、与えられる影響はそんなにわかりやすいものばかりではない。

 

OBSIDIANさんが僕のブログについて

 

『もしかすると意味が見出せなくて困っている他の人の道しるべとなれる気がします。』

 

と言ってくれたように、自分が他者に与える影響なんて

 

『もしかすると』影響を与えられる『気がします。』程度のものなのだ。

 

『絶対的に』影響を与えられる『に違いない!』などと言い切れるものではない。

 

これは考えてみると至極当然のことだ。

 

しかし、理屈ではわかっていても、僕の身体はそれを理解できていないようだ。

 

 

 

僕はブログを更新する度に、アクセス数やらコメント数やらスターの数ばかり気にしてしまっている。

 

更新した後の数時間、パソコンの前に縛りつけになり、数字の上昇を見つめている。

 

Twitterでもリツイート数やお気に入りの数ばかり気にしてしまう。

 

『もしかすると』影響を与えられる『気がします。』

 

なんて流暢なことを言ってられない。

 

どれだけの人が自分に影響をされたのか、とてもわかりやすい『数』で確認したくてしたくて仕方がない。

 

『数』が大きければ大きいほど、喜びが増す。

 

ほんとは、数が増えたところで、どれだけの人が中身を見ているのかもわからない。

 

間違えてクリックしてしまっただけかもしれない。

 

それなのに、『数』に比例して喜びが増していってしまう。

 

どうしてそんなわかりやすい『数』ばかりに飛びつくようになってしまったのか。

 

 

過去を振り返ると、人を評価するにしても、自分が評価されるにしても、数字での評価ばかりだった。

 

小学校からテストは点数だし、通信簿は数字だし、

 

中学高校は、テストの順位も張り出されていた。

 

関心・意欲・態度まで数字で判断。

 

体力テストだってすべて数字だ。

 

自分が身に着けているものも売れた数や、値段の大きさは大切だと思われていたし、

 

携帯の連絡帳の登録数の多さを友達と比べあって一喜一憂していた。

 

一日に届くメールの数だって気にしていたし、mixifacebookの友達の数も気になった。

 

簡単に数字で人間を評価することができる。

 

というより、数字で評価しようなんて思わなくとも、知らず知らずのうちに数字で人間を評価するような考え方になってしまっている。

 

僕が数字で人を評価しようとしているのではなく、数字が僕にそれを強いているかのようだ。

 

数字の方が僕より力を持ってしまっている。

 

そんな環境を生きてきたから、数字に固執してしまうのだろう。

 

 

 

しかし、数字には恐ろしい面がある。

 

人を数字で評価すると、その人の価値観について考えなくて済むようになってしまう。

 

その人の価値観のどこら辺がどのように素晴らしいのか、悪いのか、なんてどうでもいい。

 

その人を慕う人間の数が多ければ、その人の価値観は素晴らしいし、慕う人間の数が少なければ、取るに足らないものと考える。

 

その人の価値観がどのように育まれてきたのか、なぜ自分とこんなにも違うのか。

 

その人の価値観とは違う自分の価値観はどのように育まれてきたのか。

 

そんなことを考える能力をどうやら僕は失ってしまっていたようだ。

 

目の前にいる人間を、数字で判断できるようになってしまった。

 

たくさんの数を引き連れている人気者の価値観に身をゆだねて、その価値観を揺るがす不愉快者は消し去ってしまえばいい。

 

消し去ったところで、それは小さな数字が消え去るに過ぎない。

 

痛くも痒くもない。

 

幸いにも、人を消し去るボタンが身の回りには溢れている。

 

TwitterでもLineでもFacebookでも、不愉快な奴がいればブロックすればいい。

 

自分の目の前から少し数字が減るだけだ。

 

現実に不愉快な奴がいれば、連絡先を削除したり、着信拒否にすればいい。

 

連絡帳から少し数字が減るだけだ。

 

減った分は、自分の価値観を揺るがさない人や人気者でいくらでも補填できる。

 

こういう考えは、便利な物が溢れている消費社会と共鳴しているのかもしれない。

 

僕は典型的な末っ子であり、親が甘やかしてくれた。

 

欲しいものはそれなりに買ってもらえたし、物を大切に扱うよりは、壊れたら買ってもらえばいいといった感じだ。

 

便利な物があれば、不便なものは捨てて、便利な方を買えばいいとも思っていた。

 

それと同じように、自分を不愉快にする者も捨てればいいという感覚があるかもしれない。

 

そうして自分の価値観が決して揺るがされることのない、潔癖な世界を創り出すことができる。

 

美味しくて健康に良くて簡単に栄養が得られる野菜ジュースくらい都合の良い、

 

自分を不愉快にせず、肯定だけしてくれる他者で身の回りを固めることができる。

 

しかし、自分の価値観を揺るがさない他者など、もはや他者ではなくなっている。

 

野菜ジュースだって飲みすぎれば糖尿病になってしまうという副作用があるように、

 

自分の価値観を揺るがさない他者で身の回りを固めると、世界の意味を失うという副作用が現れる。

 

世界はもともと多様な価値観の人間で構成されているのだ。

 

自分の側から考えれば、不愉快な者を消し去ることは気分の良いことに思えるかもしれない。

 

しかし、世界の側から考えてみるならば、それは世界から自分が退却しているに過ぎない。

 

複雑さを避け、わかりやすさに縛られた挙句に、世界から退却し、世界のリアリティや存在意義が失われ、生きる意味はなんだという疑問が浮かんでしまったような気がする。

 

本当は、世界や人間はそんな自分の都合の良いものではないのだ。

 

数字だけで測れるものでもない。

 

だから、人が人に及ぼす影響だって、そんな簡単でわかりやすいものではないのだ。

 

そんなの自分が人から受ける影響のことを振り返ってみればわかる。

 

何年かしてから、過去に誰かから授かった言葉に影響されることもあれば、

 

自分は認めたくないから知らない振りをしているけど、明らかに影響されてしまっているということもある。

 

それなのに、自分が人に与える影響のことを考えたりすると、

 

少し話しただけで、『あいつには俺の気持ちが伝わるはずがない!』などと、すぐに決めつけてしまう。

 

どれだけ自分に都合の良い世界や人間を想定してしまっていることか。

 

そうやって他者から無限に退いていくという悪循環に陥ってしまっている。

 

一向に世界のリアリティには届かない。

 

 

 

一回そんな状態になってしまったからには、簡単に世界に戻れるなんてことはないだろう。

 

わかりやすさへの欲望はいつでも自分を襲ってくるし、それから逃れられるかはわからない。

 

とりあえず今の僕は、他者のいる世界に戻るために、こんなことをやっても意味がねーと思いながらTwitterとブログをやっていくことしか思い浮かばない。

 

この記事のように、自分が人から受けた影響や人に与えた影響が見えたら、それを引用して、その感触を一つ一つ確かめながらやっていくしかない。

 

意味がねーと思いながら、時々来るリプライやコメントに期待し、喜びつつ、世界や他者の複雑さを実感していくという、リハビリだ。

 

頑張ろう。