自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

Coccoとメンヘラ展

僕がCoccoのことを知ったのは浪人時代だから、ほんの3年前とかそこらである。

 予備校で友達を作るくらいだったら勉強する。

 家族と外食に行くくらいだったら勉強する。

 ゲームをやるくらいだったら勉強する。

 

自分で自分にあらゆる制約を課していた。

 僕の短い人生の中で一番、精神が鬱屈としていた時期だったのかもしれない。

 そんな時、テレビかネットか忘れたけど、Coccoの歌う姿を見て、一気にハマった。

 Coccoの何にハマったのかは自分でもよくわからない。

 声かも知れないし、表情かもしれないし、歌う時の身体の動きかもしれないし、歌詞かもしれない。

 多分全てだと思うけど、何にハマったのかイマイチわからなかった。

 でもハマった。ただただ魅力的だった。

 予備校へ向かう電車の中では、ひたすらCoccoの歌を聞いていた。

 特にこれが好きだった。

 


Cocco 樹海の糸 Live - YouTube

 

 あれからもう3年が経った。

 大学ではもっぱら本を読みながら自分という存在について考えているけど、

 自分について考えていく中で、自分があんなにもハマったCoccoとは何だったのだろう、と最近ふと思った。

 Coccoについてもっと知りたいと思い、いろんな雑誌のCoccoのインタビュー記事をいくつか集めてみた。

 自分には到底手の届かないような、偉大なる表現者Cocco

 僕の中ではそんなイメージだ。

 そんなこっちの勝手なイメージとは裏腹に、『クイックジャパン vol.91』でのマツコ・デラックスとの対談でこんなことを言っている。

 

Cocco:表現するっていう感覚は一回もないから。

 

マツコ:あ、分かるわぁ。

 

Cocco表現者ではなかった。では何なのか。

 

マツコ:アタシなんかだと多少の演出はするけど、基本的に自分の持ってるものをそのまんま出すしかできない人間だから。「表現してる」って思ったことはないかも。

 

Cocco:そう。生きてるだけ(笑)。プロデューサーとかがいたらたぶんラクだ。こうしなさいって言われたらそうするっていうふうに、人に乗っかれるけど、プロデューサーっていう人はずっといないから。今はディレクターもマネージャーもいない。音楽を一緒にやってくれる人はいるけど。だからCoccoの生き様にスタッフはついて来てくれるわけですよ。生き様って、表現してることじゃないさ、生きてるってことさ。

 

僕が魅了されたCoccoの姿は、ただただCoccoの生きてる姿だったのだ。

 2006年の『bridge vol.49』ではもっと露骨な表現を用いて、活動休止以前の自分の活動についてこんな風に語っている。

 

 もうとにかく窓からウンコするって感じ。それまで全部、真っ暗な中のクソ溜めだから、きっついわけ。ここから出たい。で、窓見つけてやっと外に向かってウンコできるっていう感じ。もうそれだけ。他になんか考えたりする余裕もなく、とにかく窓からお尻出して外にウンコするっていう。

 

 だから最初はライヴのとき申し訳なくて。『みんな楽しんでる?』とか、そういうのがライヴでしょ。そういうわけでもないし、とにかく人がこうクソ溜めの中のちっちゃい窓からウンコするところを観にきて何が楽しいんだろうっていうのと、でもウンコしたら気持ちいいのともうムチャクチャなわけ。

 

 だから、全然意味がわかんないの。自分が、歌が、何なのかっていうのもわかってないのに窓を見つけてしまって、ウンコしたら気持ちいいってわかっちゃって、もう意味がわからない。で、それを人が見てる、喜んでる、それが求められてるって。自分が受け入れられる手段になってるって、意味わかんない。だって想像できる?塔に窓あるでしょ、渋谷洋陽一(インタビュアー)がそこからお尻出してウンコしてたらさ、外で『ウワー!』ってなってんだよ。自分はケツの穴出して、でも気持ちいいわけ。

 

僕はこの記事を読んで、とても納得がいった。

 僕はCoccoのウンコをする姿に驚き、憧れ、魅了されたのだと思う。

 こんな自分の汚い部分を人前に曝け出していいのかと驚き、

 自分もできるのならそんな風に生きたいと憧れ、

 自分をCoccoの歌に重ね合わせることで、気持ちよくなっていたのだと思う。

 

僕は人の目ばかり気にして人に合わせてしまう性格で、ストレス解消は人の見てないとこでしてばかりいた。

 Coccoの表現を使うなら、真っ暗な中で一人ウンコを溜めてばかりだった。

 こんな真っ暗な臭い空間にいるのは自分だけだろうと、被害妄想だけが肥大化していった。

 いつしか被害妄想の中だけで生きるようになり、この現実の世界に生きているという感覚は薄れていった。

 僕にはウンコを放り出す窓など一つもなかった。

 特にそれが徹底された浪人時代だったからこそ、Coccoに一気に引き込まれたのかもしれない。

 では、今の僕がウンコを放り出す窓を見つけられたのか、と聞かれるとよくわからない。

 今は窓を必死に探している状態なのかもしれない。

 

そんなことを考えている時、Twitterでこんなツイートが流れてきた。

 

 

すげー、と思った。

 この人たちも、窓を求めてるし、しかも自分たちで創り出そうとしている。

 このコンセプトに従うと、芸術やアートははけ口であり、心の叫びであり、呼吸であるらしい。

 Coccoの言っていたウンコと似ているな、と思った。

 両者とも、人間が生きていくために欠かせない生態的機能の言葉を用いて表現している。

 ウンコや呼吸という極々当たり前のことが心の叫びとなってしまうほど、

 自分を押し殺しながら生きるようになってしまったのだと思う。

 自分が生きている証である、ウンコや呼吸を人に見てもらえないというのは、

 人々の間に成り立っている社会の中で生きているという感覚が無いに等しいことだ。

 そんな感覚から解放されるために、窓を創設しようとしている人たちの存在を知るだけで、窓を探している僕は勇気をもらえる。

 

芸術とかアートとか何にも知らないけど、メンヘラ展を見に行こうかなと思った。

  Coccoの「樹海の糸」の一節に勇気をもらいながら、僕も窓を探していこう。

 

溢れ出る憎しみを織り上げ わたしを奏でればいい 

 

 

クイック・ジャパン91
 

 

 

bridge (ブリッジ) 2006年 08月号 [雑誌]

bridge (ブリッジ) 2006年 08月号 [雑誌]

 

 

 

樹海の糸

樹海の糸