新宿の焼身自殺ツイートの子供っぽさ
新宿で焼身自殺があったというツイートが大量に回ってきた。
自殺しようとした人は、集団自衛権について政治的主張をしていたらしい。
どうして政治的主張をするために自殺を選択するほど追い込まれてしまったのか。
そんな疑問がまるで浮かんでこないかのように、お祭り騒ぎのようにTwitterで写真がアップされていた。
自殺しようとした人の価値観よりも、その現場を自分は目撃したということを知らせたいツイートばかり。
そんな様子を見ていたら、教育実習のことを思い出した。
教育実習初日。
教育実習生が自己紹介し、子どもたちからの質問を受ける。
「好きな食べ物はなんですか?」
「好きなスポーツはなんですか?」
「好きな科目はなんですか?」
一通りの質問が終わると、先生がクイズを出す。
「〇〇さんの好きな〇〇はなんだったでしょうか!?」
子どもたちはクイズに答えることに熱狂し、教室中が盛り上がった。
実習期間中に、給食の調理員さんとの給食を一緒に食べる機会があった。
子どもたちは、調理員さんをおもてなすように先生から指示された。
「調理員さんのことを知ろう。」というコーナーがあった。
係りになった人が予め調理員さんに質問をして、それをクイズ形式にする。
「調理員さんの好きな食べ物はなんでしょう。」
「調理員さんの嫌いな食べ物はなんでしょう。」
「調理員さんの好きな科目はなんでしょう。」
子どもたちはクイズに答えることに熱狂し、教室は盛り上がった。
こんな光景を見ていて、僕は思った。
子どもたちにとって、目の前の人間の価値観なんてどうでもいいのだろう。
「好きな〇〇」とか「嫌いな〇〇」を知れば、その人を知ったことになるのだろう。
まるでこの世界に「好きな〇〇」や「嫌いな〇〇」の膨大なデータベースが存在し、
その順列組合せによってそれぞれの人間ができているかのような扱い方だった。
その組み合わせを習得することができれば、その人を知る上で大切だったようだ。
こんな話をすると、
「子どもっぽくていいじゃん。」
とよく言われる。
本当に『子どもっぽい』ことなのだろうか。
それだったら、自殺しようとした人の価値観を捨象して、
ただ単に、新宿の焼身自殺の件を知ることで満足している人も『子どもっぽい』。
焼身自殺の写真をアップしている人を叩くツイートが多いけど、
『子どもっぽい』のは写真をアップしている人たちだけではない。
明治大学の件も、新宿の焼身自殺の件も、ツイッターが最も情報伝達スピードが速い。でもすぐネタ化した情報も回ってくる。テレビのニュース番組でさえ、事件の深刻さがかなり薄らいで伝わってくると思っていたけど、ツイッターはもはや深刻さなんて存在しないかのように伝わってくる。
— イミ (@iminoyamai) June 29, 2014
今日僕は新宿の焼身自殺の件のツイートについて、こんな呟きをした。
リツイートした人のTLを見に行ったら、
「情報に深刻さなんていらない。情報は速く知ることができれば良い。」
という意見がよくあった。
こういう考えの人は少なくないと思う。
こういう考えの人は、自分で写真をアップして熱狂するような行為はしないけど、
TLに流れてきた画像を無表情で見て、
「へー、こういうことがあったんだな。」
と淡々と情報を習得して終わらせるのではないだろうか。
人の価値観を捨象して、情報を知ることで満足する態度は、
上で挙げた『子どもっぽい』のと同じことである。
人前には現れないから叩かれはしないが、『子どもっぽい』大人は多い。
よくよく考えれば、『子どもっぽい』大人が多いのは当たり前だ。
なぜなら、学校と社会は地続きになってるからだ。
学校という空間は国家や経済界の大人たちの要請で成り立っている。
そこではどんな人間が求められるかというと、効率的なシステムに従順である人間だ。
つまるところ、経済を活性化させるために都合の良い人間。
学校とそれを取り巻く空間には、経済効率性を高めるための仕掛けがたくさんある。
出席番号や時計や学習計画によって管理されるのはもちろんのこと、
勉強の方法も最短で知識を習得する技術が常に研究されている。
効率性の怖いところは、誰しもが効率性を求めるところではない。
むしろ、効率的なものを“当たり前”だと思うことが怖いのだ。
学校の子供だって、効率性を求めているわけではなく、それが規則だから守っているだけである。
規則の中に効率性が埋め込まれているだけだ。
それを“当たり前”と思うことによってどうなってしまうのか。
その人の思考様式や生活が知らず知らずのうちに効率的になってしまうのだと思う。
『好きな〇〇』を習得することで相手を知ったことになる子どもはその象徴だし、
そんな子供がそのまま成長していったら、自殺しようとした人の価値観なんか関係なく、ただ情報を習得できればいいという大人になるのだと思う。
まるで知識習得の確認テストのための勉強みたいじゃないか。
それくらい効率的なシステムというのは人の思考様式に介入してくる。
ツイッターでの事件のネタ化に対して、人の気持ちを想像することができない人がたくさんいることを嘆く人はたくさんいるけど、
その兆候は小学生の段階でもうはっきりと現れているのだ。
なにも僕は子どもの性格が悪いと言っているのではない。
『子どもっぽさ』のような、大人が“当たり前”だと思っていること、
もっと言えば、その背景にある社会の構造についてもっと考えていく必要があるのだと強く感じた。