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自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

園子温監督の映画『ヒミズ』の悲劇性

 オチまでネタバレするので、見たくない人は閉じてください。

 

 園子温監督の映画『ヒミズ』を観ました。

原作である古谷実さんの漫画『ヒミズ』を元に、園子温監督が撮影した映画です。


映画『ヒミズ』予告編 - YouTube

 

 原作の古谷実さんの『ヒミズ』は、社会の周辺の位置にいることを義務づけられてしまったかのような環境に生きる若者たちの、鬱屈とした絶望の物語。

 園子温監督の『ヒミズ』も基本的な構図は、原作を忠実に踏襲していたが、製作期間中に起こった東日本大震災を映画に取り入れることで大きく物語は変容している。

 

 主人公の住田祐一(染谷将太)は、家庭環境に恵まれない15歳の中学生。

父親(光石研)は借金まみれで家に戻らず、母親は男を家に連れ込んで遊ぶことに夢中で、育児を放棄してしまっている。そんな母親と二人で暮らしながら、家業の貸しボート屋を一人で切り盛りしている。

 そんな住田の夢は『一生普通に暮らすこと。』大きな幸福も無く、大きな禍もない人生で大満足と言い張っている。

 そんな家庭に恵まれず、自らの存在意義を見いだせない住田が、東日本大震災で人も住む場所も失ってしまったホームレスの人たちと、同じく親からの愛情を受けず“普通”に生きられないクラスメートの茶沢景子(二階堂ふみ)に取り囲まれながら物語は進んでいく。

 しかし、住田の生活は“普通”からの逸脱を強めていく。父親の借金取りが家に来ては殴られ、遂には母親が『頑張ってね!』という簡単なメモ書きと少しのお金だけを残し、男と家を出て行ってしまう。借金まみれの父親がたまに家に帰ってきては、『俺はお前に死んでほしいよ。保険が下りるからさ。』『お前いらねぇんだよ。』などと罵倒される。

 そんな住田の中に自分を見ているかのように、ホームレスの人たちと茶沢は少々押しつけがましく住田を支えていくのだが、それもむなしく、住田はついに衝動的に父親を殺してしまう。

 

 もはや“普通”に生きていくと言い張ることもできなくなってしまった住田は、自らのゴミ以下な命を立派に使ってみたいと願うようになり、社会の中の悪党を探し殺すことを目標に街を徘徊する。 

 自らの存在意義を社会的正義と結びつけることで保とうとした住田だったが、悪党を見つけ殺そうとすると、悪党の中に自分と似た部分をどうしても見出してしまう。住田の中に残ったのは、悪党を殺すこと=自らの存在意義の無さの証明という葛藤だけだったように感じる。

 その試みもむなしく終わった住田は、自殺をしようと家に帰る。家には茶沢がいて、『住田君は自分のルールにがんじがらめになってるだけだよ。』『明日警察に自首して、そこからやり直そう。』と説得をする。二人で布団に横になりながら、罪を償った後はすぐ結婚して子どもを作って幸せな家庭を…、という“普通”な生活を、涙を流しながら語り合う。

 夜が明けると、二人で家から出て、東日本大震災によって瓦礫に囲まれてしまった一本道と重ね合わされている土手の一本道を『頑張れ―!住田頑張れ―!』と叫びながら、二人が希望に向かって走っていくシーンで終了する。

 


Himizu (ヒミズ) End Scene - YouTube

 

 結局この映画は、“普通”から逸脱してしまった少年少女が、到達することのない“普通”を目指し、挫折し、紆余曲折しながらも、最終的には“普通”という希望に向かって二人で走り出して終わる。

 ラストシーンまで散々“普通”という虚構に縛られてしまうものの滑稽さ、救いの無さを描いていたにも関わらずである。

 原作の古谷実の『ヒミズ』では、ラストに主人公の住田はやっぱり“普通”に生きることは無理だという絶望に打ちひしがれて、茶沢に黙って自殺をしてしまう。

 “普通”なんてものは定義できず、所詮、逸脱してしまったものが生きるために頭の中に創り出さざるを得なかった虚構であって、そこに存在するのは永遠に“普通”には届かない惨めな自分でしかない。

 そこに救いなんていうものは存在しないと思っている僕は、原作のように“普通”を追い求めることの絶望さを表現してほしかった。だからラストシーンは住田が自殺した方が良かったと思う。

 ではどうして園子温監督の『ヒミズ』ではラストで“普通”に希望を託したのだろうか。

 

 製作期間中に起こった東日本大震災を無視することなんてできず、映画に取り入れなければならない、との園子温監督の覚悟が、この物語を希望の物語に変容させたようだ。

 園子温監督はインタビューでこんなことを語っている。

 

Q震災が製作中に起きて、ストーリーがどのように変わったのでしょうか。

園子温監督:
 3.11以前は普通に漫画の原作に基づいた映画という台本をずっと書いていたんですけど、それが起きたときに、このまま知らんふりしてまったく同じものを作るわけにはいかないと思いまして、1回止めて考えてみまして、まあやめるわけではないので、これを3.11以降の青春映画にできないかなって思った。そういう思いでシナリオを書き直ししたんです。そういうところから変わって言ったところ、やはり漫画自体が10年前のものですので、やはり状況によって変えざるを得ないところもいろいろありました。やはりそういうことで台本も変わってきましたね。


地震が起こる前はどういった作品を考えていたのですか?

園子温監督:
 震災以前の台本というのは、漫画に基づいてちょっとダークな、日本の暗い世界に生きる世知辛い感じの若者たちの事情を描いているという感じだったんですけど、その絶望感ですか、テーマも若者の絶望ではあったんですけど、この3.11以降ただの絶望を描いていてもそれはちょっと違うんじゃないかと。1つ、もっとこう今を生きるということの切実な希望を描きたいなというのが出てきましたね。

 

 インタビューにもあるように、初めは『ヒミズ』で絶望を表現しようとしていたようだし、園子温監督の他の作品から想像するに、“普通”という虚構に希望を見出すなんてことは決して考えもしていなかっただろう。 

 園子温監督の作品はどれも、主観的に感じている“幸せ”というものの脆弱さを暴露し、それを乗り越えた先に“幸せ”があると思いきや、それも虚構でしかなく…、という生きていくことの難しさの中にかすかに見出される愛や情を語ってきたと思う。 

 それは『冷たい熱帯魚』のラストシーンの、『人生ってのはなぁ、痛いんだよぉ!!!』という言葉に象徴されていると勝手に僕は感じている。

 そんな園子温監督でさえ、東日本大震災を自分の問題だと感じる中で、絶望を語ってはいられないという気持ちになったようだ。さっきのインタビューの続きでもこう語っている。

 

 

Q映画全体として、どういった思いをこめましたか。

園子温監督:
 全体的に僕はこの映画に、今までの映画、僕の作り続けてきた映画とは明らかに変わっていかざるを得なかったという状況があったということです。僕は非常に、人間って言うのはこんなもんだよという絶望的な姿を丸裸にするような映画を撮り続けてはいたんですけども、それだけではもうやっていけないなというのが3.11以降の自分の映画のあり方で、それをやっぱり「ヒミズ」は自分の中の映画史、映画を作り続けてきた中で非常に転向したというか変わらざるをえなかったということです。それは1ついうと絶望していられない、へんな言い方で言うと希望に僕は負けたんです、絶望に勝ったというよりは希望に負けて希望を持たざるをえなくなった。だから簡単に言っちゃって、「愛なんてくだらねえよ」って言ってたやつがすごい人を好きになって、愛に白旗を揚げた、愛に敗北。そういう意味ではもう絶望とかはいってられなくなったなと。それは絶望に打ち勝ったというよりは希望に負けたという。希望を持たざるをえなくなったなという。これからはただ単純に絶望感だけではやっていけないっていう、そういうテーマです。それは誰かを励ましているわけでも、だれかをけなしているわけでもなく、そういう今、非日常を生きていく決意を新たにこの映画で刻んでいこうという、それがテーマですから。

 

 確かに、震災から1年も経っていない映画の中で、絶望なんてものを語る気にはなれない。それを見た人も、絶望の中に希望を見出すという見方を到底できる状態では無かったと思う。

 周りから非難されるかもしれないけど、被災した地に実際に赴き、映画を撮影した園子温監督の覚悟は中々マネできるものではないし、東日本大震災を自らの問題だと受け止められる精神はとても尊いものだ。 

 しかし、そんな園子温監督の尊い精神が、『ヒミズ』という作品の中で語られなければならなかったというところが、この作品の悲劇性を生み出しているのだと思う。

 

 『ヒミズ』という作品の中で東日本大震災を主題化しようとすると、希望を語る主体は必然的に自らの存在意義を見出していない少年少女となってしまう。自らの存在意義を見いだせずに絶望している若者が、どうしたら東日本大震災のような大災害を自らの問題として引き受けることができるだろうか。

 作品中の住田の行動に象徴されるように、存在意義を見いだせない人間は短絡的に自らの存在意義=社会正義と結び付けようとしてしまう。社会正義という大義名分で自らの存在意義の無さを覆い隠そうと必死になる。それはただの鬱憤晴らしでしかないのに。だから住田は悪党を殺すことで社会に貢献できるという勘違いをしてしまう。それはただ単に悪い人間の揚げ足を取ることにすぎず、一時の快楽や悲しみや憎しみや絶望しか生まない。社会に適応できない人間が社会に適応できない人間を殺すこと=自分が自分を殺すという結果になってしまうところが最も悲劇的だ。

 自分が自分を殺すという結果に気付いた住田が希望を語る道は、茶沢と“普通”の幸せな家庭生活を送るという虚構しか残されていなかった。“普通”の幸せな家庭=自らの存在意義なんていうのは、短絡的な社会正義=自らの存在意義と同じくらい狭い世界で嘘くさいものだと思う。

 現に、作品の中でも、東日本大震災で孤立化したホームレス達(その内一人は人殺しさえしている)のその後の人生など関係なく、住田と茶沢の二人の幸せへの希望=世界の希望のように見えてしまった。

 こんな狭い世界の希望=世界の希望という図式になってしまったのは、園子温監督がそういう考えだからではなく、存在意義を見いだせない若者の絶望を主題化しようとした映画の中に、東日本大震災を取り入れなければならなくなったから生じた結果だと思う。

 この作品には被災した人たちからの非難の声も大きいらしい。『震災をなめるな。』『事態を矮小化しすぎている。』と。

 存在意義を見いだせず、自分の遠くで起こっている事態を自分のものと受け止めることができない若者と、東日本大震災という遠くの人間も自分のものと受け止めなければ復興できない災害という、決して交じり合うことの無い組み合わせの中で希望を語ったが故に、若者の狭い世界の希望=世界の希望となり、存在意義を見いだせない僕のような人間からしたら、この若者の生き方には救いがしょうもないものに見え、被災した人からすれば震災をなめて描きやがってという非難が生じてしまったのだと思う。

  

 作品の中の若者とは違い、東日本大震災のような問題を自らの問題と受け止める覚悟を持っている園子温監督は、こう語っている。

 

Q今後どう「ヒミズ」の経験が生かされていくのでしょうか

園子温監督:
 やはりもっと踏み込んだ、僕は自分が社会派の監督だとは思っていないんですけど、ここもう1本、少なくとももう1本は今の状態を描いた映画を作らないと前に進めなくなったので、そういう映画を今年中に作ろうと思っています。いわゆる今回、次の映画はもっと原発とか放射能とか、あるいは日本の戦後のあり方とか、ひいては全てを含むんですけども都市と田舎の構造みたいなものも含めてですけど、そういうものを踏み込んだ映画を1本きちんと作って次にいこうと。もう動き出しています。

 

 

 現に『希望の国』という原発放射能を主題歌した映画を作り上げたし、それは『ヒミズ』とは違って、東日本大震災による社会問題をアクチュアルに表現していたと思う。さすが園子温監督だと思った。

 映画『ヒミズ』は、園子温監督が存在意義の無い若者を主体として、東日本大震災を経験した日本の中での希望を語ることを強いられたことによって、大災害を受けた後の危機的な状況であっても、人の揚げ足を取ることを社会正義と勘違いし、一時の優越感や快楽を得ることで存在意義を確認することに固執する人間や、二人だけの小さな世界の幸せが世界の幸せだと勘違いしてしまうような人間という、日本に暮らしていればどこででも見かけることができる光景を、計らずとも映画の中に創り上げてしまったことが、とても悲劇的だと思う。

 そしてその悲劇性は、この作品を見て、住田と茶沢の二人の狭い世界の希望=世界の希望という図式に感動し、涙を流した人の中に現れているのかもしれない。

 

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 参考

"希望に敗北した" 園子温監督「ヒミズ」を語る | NHK「かぶん」ブログ:NHK