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自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

自然に対する感受性の無さと人間への不信

僕は自然に対する感受性が皆無だ。

自然に接したところで、取り立てて何かを思う感じはしない。

山やら海やら森やら空やらを見て、何かを思う人をずっと羨ましいと思ってきた。

僕にはその感覚が全くわからない。

むしろ僕は自然に接している時、自分を疑うことに必死になっている。

 

最近自然に接したことと言えば、教育実習中に遠足で山登りに行った。

山の頂上から見る景色を見て『うわー!綺麗!』と子どもたちは言う。教育実習生も言う。先生も言う。一応僕も『綺麗だねー(棒読み)』とは言っておいた。そうするしかない雰囲気だから。

でもその時、頭の中では『自分は本当に綺麗だなんて思ってるのかよ。そんな心の躍動を感じているか?テレビとかで絶景を見て「綺麗―!」とか言ってる芸能人のマネをしてしまってるだけじゃないの?ドラマとか映画で見たことあるシーンのマネしてるだけじゃないの?』とかいろいろ考えてしまっていた。

 

こういう時、往々にして自分への懐疑は他人への懐疑であるし、他人への懐疑は自分への懐疑になっている。

 

テレビとかで絶景を見て「綺麗―!」とか言ってる芸能人のマネをしてしまってるだけじゃないの?ドラマとか映画で見たことあるシーンのマネしてるだけじゃないの?』みたいなことは他人に対して何回も思ったことがある。

教育実習で担当してくれた先生は、山の頂上で写真を撮る時に両手を広げて自然を味わうポーズをしていたが、ちょっとそういう感覚がよくわからなかった。どっかで見たことのあるポーズを拝借して、自然を味わってますよ感をアピールしてるだけで、自然に対して多分何も感じてないんだろう、と思った。

 

高校の頃、晴れた日の空の写真をSNSに貼っては、テレビや小説に溢れていそうな、陳腐なポエムを書いていた友達がいた。『それって空が好きなんじゃなくて、空が好きでポエムってる自分が好きなんじゃないの?』って思ってた。僕の性格が悪いだけなのかもしれないけど、そう思ってしまった。

 

こんな経験は挙げればキリがない。そんな経験をするうちに、他人を疑うのと同じように、僕は自分の自然に対する感受性の懐疑を深めていったのだと思う。こうやって考えていくと、僕には自然に対する感受性が無いのではなくて、人間に対する不信が存在しているだけのような気がする。よくよく考えてみれば、自然に対する感受性の無さの裏側に、人間に対する不信があるのは当たり前なのかもしれない。

 

山や海や森や空などの自然の良さの一つは、誰のモノでもない大きな自然を複数の人間と味わいながら、そこで考えたことや感じたことを共有し、心を充実させることができることだと思う。複数の人の考え方や感じ方が自分の中で交わることによって、自分の自然に対する感受性というのは豊かになっていくのだろう。そう考えると、人間に対する不信がある人が、自然に対する感受性を豊かにすることなどできるはずがない。

 

山の頂上で両手を広げた先生や、空の写真と共にポエムってた高校のころの友達は、自然を味わうというよりは、自然を味わう自分を味わっているようにしか僕には見えなかった。そんな自然の利用の仕方はしたくないな、と思った。だから自分の中のそういう部分に気を付けようと自分を疑った。自分を頑張って疑ってる分、他人に対する疑いも厳しくなっていく。そんな風に他人を疑い、同じように自分を疑い、相乗効果でさらに他人を疑うというループに僕は陥ってしまっている。

 

初めに『僕は自然に対する感受性が皆無だ。』と言った。けど実際は、自然に対する感受性が皆無なのではなく、人間に対する不信がそこにはあるのだと思う。

今の僕には意識することができないけど、僕にも自然に対する感受性というのはあるに違いない。しかし、それを意識できなくなるくらい抑圧してしまうほど、僕は人を疑い自分を疑ってしまっているのだろう。