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自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

R.D.レイン『ひき裂かれた自己』から空虚な自分について考える。

R.D.レインの『ひき裂かれた自己』という本が大学の研究室にあったので読んでみました。ものすごい本でした。まさに自分のことが書いてある!と思いました。この本をもとに自分について整理したいと思います。

 

『ひき裂かれた自己』では、分裂病、もしくはそれに近い患者が体感している世界をどうにか論理的に言葉で表現しようとしている本です。分裂病は現在では統合失調症に当たります。

分裂病者よりも、分裂病質者という単語が頻出するので、分裂病に近いパーソナリティを持っている人について述べられている部分が多いと思われます。

最初に言っておかなければならないのは、レインが<普通>が正常で、分裂病が異常、という価値基準で論じているわけではないということです。むしろ<普通>が正常で分裂病が異常だと疑わない人の視線こそが分裂病を促進させてさえいるということを嘆いています。

序文でレインはこう述べています。

私が本書の中で何よりも伝えたいと思ったことは、精神病と診断された人を理解するということは一般に考えられているよりも可能だ、ということであった。(p6)

そんなレインの本と共に自分について考えていきます。

 

レインは精神分裂病質者を次のように定義しています。

精神分裂病質者というのは、その人の体験の全体が、主として次のような二つの仕方で裂けている人間のことである。つまり第一に世界とのあいだに断層が、第二に自分自身とのあいだに亀裂が生じているのである。このような人間は、他者と<ともに>ある存在として生きることができないし、世界のなかで<くつろぐ>こともできない。それどころか、絶望的な孤独と孤立の中で自分を体験する。その上、自分自身をひとりの完全な人間としてではなく、さまざまな仕方で<分裂>したものとして体験する。たとえば身体との結びつきが多少ともゆるくなった精神として、あるいはまた、二つ以上の自分として―等々。(p14)

 

世界や周りの人間が自分には疎遠に感じられる。その上、自分を一貫した者としてではなく、身体と精神が分裂した者、もしくは自分が複数に感じるような人だと言っています。

とても心当たりがあります。僕は自然を体感して見ても何も思うことできないし、周りの人間を信じるということができません。いつも疑っています。そして人の中にいる時の方が強い孤独を感じます。疎遠に感じられるせいで、みんなが感情を吐露する場面でも無表情・無関心となってしまいます。だから人に会わず家で一人で過ごしてばかりいます。

 

レインはこんな僕のような人間の状態についてこう述べます。

存在論的に不安定な人間は、自己を充足させるよりも保持することに精いっぱいなのである。日常的な生活環境さえが、彼の安定度の低い閾値をおびやかすのである。(p52)

 

外界の事象は、それが他の者に影響するのとは同じ仕方では、もはや彼に影響しない。それは彼に、より少なく影響するのではなく、反対にしばしば彼に、より大きく影響する。彼が<無関心>になったり<引きこもったり>するというのは、事実でないことが多い。けれども彼の体験世界が、他の人々ともはや共有しえないものになっているということはできよう。(p53)

<普通>目線からしたら、無関心な人や引きこもったりする人は、感受性が低く外界の影響が小さいように見えるのかもしれません。現に僕も自分は感受性の低い人間なのでは、とずっと疑っていました。でもレインに言わせれば、外界がより大きく影響してくるからこそ、不安定な自分を保持するために無関心や引きこもりになっているということを言いたいのだと思います。

外界の物事の影響力が人より大きいか小さいかは客観的に測れるようなものではないので難しい。けど思い当たる節はあります。

例えば僕は断定形の口調が苦手です。周りの人は平気で断定形口調で会話をしているけど、自分は入り込めないということがたくさんあります。断定形口調の会話は何か自分が越えることのできない壁が飛び交っているように感じられます。平気で会話ができる人とできない僕では、断定形口調の影響力の大きさが全く違うのかもしれません。

 多分、こんな風に日常の些細なことが自分にはどうしようもできない壁のように感じることが多いのが分裂病質的な特徴なのでしょう。

 

このような状態をレインは「呑みこみ」と名付けています。

 

ひとがひとりの人間として他の人間にかかわりをもつためには、自己の自律的なアイデンティティについて堅固な感覚をもつことが要求される。さもなければ、いかなる関係といえども、アイデンティティの喪失のおそれをもたらす。その一つの形態が「呑みこみ」と呼ばれる。ここでは人間は、誰かもしくは何かとのかかわりを、あるいは自分自身とのかかわりそのものさえも、おそれるにいたる。というのは、いかなる関係においても、自律性の堅固さについての不全感が、自律性とアイデンティティとを失いはしまいかというおそれに、彼を直面させるからである。呑みこみは決して、それを避けようとする人間のきわめて積極的な努力にもかかわらず、いやおうなしにおこってくるようなものとしてのみ、見られるべきではない。その人間は、たゆまぬ熱烈な絶望的活動によって、溺れることから自分を救うことに汲々としている人間として、自己を体験する。「呑みこみ」にあっては、理解される(したがって把握される、了解される)こと、愛されること、そして単に見られることにすら、危険が感じられる。

憎まれることも他の理由から恐れられるかもしれないが、憎まれること自体は、愛によって呑みこまれ(そう感じられるのであるが)破壊されるのにくらべれば、障害の程度はずっと小さいことが多い。

 呑みこまれるおそろしさの圧迫のもとにあって、アイデンティティを維持するためにつかわれる主な策略は孤立である。それゆえ、個人的の自立性にもとづく「自立」と「かかわり」という両極のかわりに、ここでは他者に吸収されることによる完全な存在の喪失(呑みこみ)と完全な孤独(孤立)という対立が生じる。(p56)

見られることにすら危機を感じる。とてもわかる。正面から複数の通行人が来るだけで、自分がなんか悪口を言われてるんじゃないかと中学の時くらいからずっと思っている。自意識過剰だ。

 

自意識的な人間は、実際彼がある以上に、自分は他人の関心の対象だと感じている。このような人間が街を歩いていて映画館の前の人の列に近づくと、<こちこちになって>そこを通りすぎねばならない。できれば、道路の反対側にわたるだろう。レストランにはいるのも一つの試練であって、自分ひとりだけのテーブルにすわる。舞踏会では二つ三つの組がすでに踊りはじめて自分が加わることができるようになるまで待っている―等々。(p143)

 

こんな自意識過剰で呑みこみの危機に瀕している人は、誰かに吸収され自分を喪失するか、完全な孤独になるかしか無いようです。

でも対処の仕方はそれだけではありません。レインが「石化」もしくは「離人化」と名付けた状態の方が僕には恐ろしいように感じました。

 

それによって誰か他人を<石化>し石に変えようと試みる魔術的行為。さらに言えば、他人の自立性を否定し、その感情を無視し、彼を一個の物とみなし、その生命を抹殺する行為。この意味において彼を離人化し事物化するといってよい。つまり、他人を独りの人間として、自由な行為者としてでなく、ものとして取り扱うのである。

離人化は、他者があまりにも厄介な邪魔な存在となったとき、その人物を処理する手段として一般に用いられる方法である。人はもはや相手の感情に答えようとせず、あたかも彼が感情をもたないかのようにみなし取り扱おうと身構える。ここで問題になっている人々は、いずれも自分自身を多少とも離人化した存在と感じやすく、かつ他者を離人化する傾向がある。彼らはつねに、他者によって離人化されることをおそれている。彼を一個の物に変えようとする他者の行為は彼にとっては現実に、石化されることなのである。<それ>として取り扱われるとき、彼自身の主体性は、顔から血の気がのくように、遠のいてしまう。(p59)

自分が予測することのできない相手の自由な部分を石化もしくは離人化してしまえば、自分は何にも恐れることがない。緊張する時は観客の顔をジャガイモだと思えばいいとか、あの感覚に似ているかもしれない。

この前、高校の時に自分が書いた日記を読み返してみたら、『他人という者は、ドラゴンクエストなどのRPGに登場するような村人に過ぎない。そのほとんどは無駄話をするだけの取るに足らない者であり、たまに物語を進行するヒントを与えてくれる存在がいるだけだ。こちらからは何も相手に影響を及ぼすことはない。そんなに他人を気にすることはない。』と書いてあった。笑

これも一つの石化であり離人化であったのだと思う。

 

一方で、レインはある程度の離人化は正常だと言っている。

他者を部分的に離人化することは、われわれの日常生活においてもひろく行なわれ、高度のものでないかぎり正常とみなされている。ひとが他者を、その人が誰であり何者であるかを全く考慮せずに、潜在的にある役割を果たすロボットとして、あるいは、自分もまたその別の部分として機能するところの大きな機会の一部として取り扱かぎり、大ていの人間関係が多少とも部分的な離人化傾向にもとづいているのである。(p59)

人間関係の上ではある程度の離人化は避けられないものなのだろう。むしろそれが信頼の下で行われれば、お互いの人生の充実に繋がるのかもしれない。

でも閾値が低く呑みこみに脅かされる人間は、人間関係の内に潜む離人化を強く感じ取ってしまい、自分が離人化されるか、自分が他人を離人化するかの格闘を強いられてしまうのだろう。

他人を石化し離人化することが自己防衛になると先に述べたけど、呑みこみのパワーはとてつもないから毎回うまくいくものでもない。もう一つの方法として、自分自身を石化してしまうというのが挙げられている。

仮病を使ったり、死を装うことはその生命をまもる手段になる。自ら石になることは、他の誰かによって石に変えられないようにする手段となる。「汝、堅固なれ」とニーチェは説く。たぶんニーチェ自身が意図しなかった意味においてであろうが、石のように固くなること、したがってさらに死んだようになることは、他者によって死物に変えられる危険に対して機先を制することになる。自分が自分を完全に理解する(自分を呑みこむ)ことは、他者が自分を理解する仕方の渦のなかに吸いこまれることによって生じる危険に対する防衛である。自分自身の愛によって自分を消耗することは、他者によって消耗される可能性を防ぐのである。(p66)

 

こうなってくると、自己は分裂する。他人と接している身体は石であって、本当の自分は身体の内側の精神だと思うようになる。そしてその精神が自分を理解する(呑みこむ)のでなければ自分の理解者はゼロになってしまう。強い自己愛は自己防衛の一つなのだろう。僕は普段から他人は自分のことなんてちっともわかりはしない、自分が一番自分のことをよくわかっていると思い込んでいる。これは他人の前にいる自分を石化し、身体と精神が分裂した結果なのかもしれない。

 

この境地においては、人は多少とも自分を身体から分離ないしは遊離した存在として体験する。身体は自己存在の核心としてよりは、世界内の他の事物のあいだの一つの事物と感じられる。真の自己の核心となるかわりに、身体はにせ自己の核心とみなされる。遊離した非身体的な<内的な><真の>自己はこのにせ自己を、気づかったり、おもしろがったり、ときには憎んだりしながら眺めている。

身体から自己がこのように分離してしまうと、身体化されない自己は、世界の生のいかなる局面にも、直接の参与をはばまれる。そして世界はもっぱら身体の知覚や身体の感情や運動(表情・しぐさ・談話・行動等)によってのみ媒介される。身体化されない自己は、身体が行うすべてのことに対する傍観者として、直接的には何も関係しない。その機能は、結局、身体が体験し行うところへの観察と統御と批評ということになるが、これはふつう純粋に<精神的>と呼ばれている作用に外ならない。(p88) 

 

僕はこの部分に一番感動した。中学くらいから、自分の後ろにもう一人の自分がいると思っていた。そいつが自分を操作していると思っていた。人と接している自分は嘘偽りの自分であるという感覚がどうしてもあった。 文化祭の時なんかは周りに合わせて笑うけど、後ろのもう一人の自分は何も楽しいと感じていなかった。ただ周りに合わせるために偽物の自分を笑顔に操作しているような感覚であった。

後ろのもう一人の自分が非身体化された<真>の自己であり、人と接している自分が身体化されたにせの自己だったのだろう。こんな僕のような人間はどうなってしまうのか。

このような分裂病質者はある意味で全能的であろうとしているのである。ただし、他者との創造的関係にたよらずに、他者や外界が彼の前に実際に現れることを必要とするような関係諸様式を自己存在の内部にすっかり封入することによって、全能的であろうとしているのである。彼は非現実的な不可能な仕方で、自分にとって自分がすべての人間でありすべての物であろうとしているように思われる。想像される利益は、真の自己の安全、他者からの孤立とそれによる自由、自己満足と統御である。

この点で挙げられる現実の不利益は、この企てがそもそも不可能でありかついつわりの希望であるがゆえに、永続的な絶望にいたるということである。第二に、持続的で脳裏を去ることのない無益感も、同様にさけがたい結果である。なぜなら、ひそかに閉じこもった自己はにせ自己体系の準―自律的活動への参与を否認することによって、単に<心的に>のみ生きているのだからである。さらにこの閉じこもった自己は孤立するので、外的体験により豊かにされることがなく、そのため内的世界全体はしだいに貧困化し、その人間は自分をまさに真空だと感じるまでにいたる。どんなことでもなしうるという感じ、すべてを専有しているという気持ちが、不能感、空虚感と隣り合って存在する。(p97)

 

僕は大学受験勉強の時は学校の先生にも予備校の先生にも友達にも誰にも頼らずに全部自分でできると思い込んでいた。と同時に不安やら絶望感も共に感じていた。あの全能感は自分を独りにするからこそのものだったのかもしれない。そして受験の失敗も必然的な結果だったんかもしれない。

想像の領域は無限大。そのベクトルは大きな破壊衝動へも向かう。

空想と現実とのあいだに開かれた回路が欠如していれば、空想においてどんなことでも可能になる。空想のなかの破壊性は、その破壊を代償的に修復したいという願望を伴わずに、存続する。というのは人間に償いをするようにうながすところの罪責感が、この場合、その緊迫性を失うからである。だから、空想の破壊性は阻止されることなく猛威を振い続け、世界や自己は空想の中で灰燼に帰してしまう。

 

患者が自己の内的空虚・無価値・冷却・荒廃・乾燥を、彼がまだどこかにあると信じている豊富・価値・暖かさ・連帯感と対比する場合(この信念はしばしば空想的に理想化されいかなる直接的体験によっても訂正されないほどに大きなものとなっているのだが)、他者がもち自分に欠けているものに対する絶望的なあこがれと熱望から、他者のものであり自分のものでないすべてのものに対する狂暴なねたみと憎悪にいたるまでの、いや、世界のすべての良きもの・新鮮なもの・豊かなものを破壊したいという欲望にいたるまでの、相容れない情動のうねりが引き起こされる。(p119~120)

自分の殻に閉じこもって、自分の中身が空虚になれば空虚になるほど、他人のことが羨ましくて仕方がなくなり、それを破壊したくもなるらしい。僕は嫉妬深い人間なのでよくわかる。

リア充爆発しろ!』って言葉はそんな妬みと破壊衝動をうまく表現しているのかもしれない。

大野そらさんの漫画が思い浮かんだ。

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内的に閉じこもった自分の想像上では何でもできるということと、自分や他人を離人化することの組み合わせは大変なことを生む。石化あるいは離人化の一番怖いところはこの点だと思う。

 離人化された人間はまだ利用され、操作され、作用されうる。われわれが先に述べたように、人間に対立するものとしての事物の本質的特徴は、事物がそれ自身の主体性を持たず、したがって相互的志向性を持たないことである。(p99)

現実の自律した人間の前では不可能なことを想像上で創り上げ、それを離人化した人間に対して適用しようとしてしまう。それは殺人にさえ繋がるかもしれない。

これは極論かもしれないけど、僕は他人をどうしても利用目的でしか見ることができない。それは相手にとって失礼だな、と思いつつも、どうしてもそういう目でしか見れない。だから人に関わらないようにしている部分もある。そんな状態をレインはうまく表現してくれている。

分裂病質者の信じやすいものがあるとすれば、それは自己の破壊性である。彼は、存在するものを無に還元せずして、自己の空虚を埋めうるとはとうてい信じられない。彼は自己の愛や他者の愛を、憎しみと同じく破壊的なものとみなす。愛されることは彼をおびやかす。だが彼の愛も同様にほかの誰かにとって危険でもある。彼の孤立は、彼自身の自己のためばかりではない。他者への懸念からも発しているのである。ある女子分裂病患者は誰にも自分の身体に触れることを許さなかった。彼らが彼女に危害を加えるからではなくて、彼女が彼らを電気で殺すからであった。ところでこれは分裂病質者が日々感じているところの精神病的表現にすぎない。彼は言う―「私がだれかを愛することは、その人にとって好ましいこととは言えないだろう。」と。そのとき彼にできるのは、好きになる危険のある誰か、もしくは何かの心象を<心の中で>破壊することである。これは現実の中の他人や物を破壊から防ぎたいという欲求のためである。欲しいものもねたましいものもなくなれば、愛するものもなくなる。つまり彼によって無に還元されるべき何物も存在しなくなるわけである。最後の手段として彼は<自己>を殺りくし始める。だが、これは自分のノドを切るほど簡単ではない。彼は、存在することを避けるために、しかしまた、殺りくする自分から存在を守るために、非存在の渦中へ身を投じるのである。(p123)

 

愛とか友情とか、そういう情緒豊かなものほど信じられないものは無い思う。というより怖い。

だから非存在の渦中へ身を投じるということで、結局独りで引きこもる結果になってしまう。袋小路だ。この袋小路の中で現実を回復しようという試みは失敗に終わりがちになってしまう。

本当に生きているという感じをもっとはっきり体験するために、自分自身を非常な苦痛や恐怖にさらす方法がある。このようにして一人分の分裂病の女性は、自分の手の甲に煙草を押しつけて火を消すという習慣をもっていたし、また眼球を親指で強く押したり、ゆっくりと髪の毛をひっぱったりする習慣をもっていた。彼女は何か<現実的>なものを体験するために、このようなことをしたのだと説明してくれた。ここで理解しておかねばならない重要なことは、彼女がマゾヒスティックな満足を求めたのでもなければ、無感覚でもなかったということである。彼女の感覚は普通と少しも変わらなかった。彼女は自分が生きていて、現実のものであるということ以外は、あらゆることを感じることができていた。ミンコフスキーは、彼の患者の一人が同じ理由で、その衣服に火をつけたことを報告している。つめたい分裂病質者の人は<刺激を求めていく>し、極端なスリルを追求するし、極端な危険に自分をさらすが、ある患者が述べたように、それは<生命をおどかしてそのいくらかを巻き上げてくる>ためなのである。(p197~198)

 僕は激辛料理ばかり食べてるし、今も激すっぱいレモンキャンディーを食べながらブログを書いてるけど、それも現実を感じるための刺激なのかもしれない。中学の頃はリストカットもやったことがある。軽いやつだったけど。

 

どうすれば現実を獲得することができるのだろうか。

レインはこの著作では、分裂病質患者の世界を構成するに留めているため、どうすればよいのかは書いていない。ほんの少しだけ次のようなことが書かれていただけである。

きわめて明らかに、自由・力・創造性についての正統な結末もまた、分裂病質者において成就され全うされうるものである。

他者から比較的孤立している分裂病者の作家や芸術家の多くが、空想の中の諸形姿を世界内の諸事物によって肉づけることにより、創造的関係を世界内の諸事物との間に成立するのに成功している。(p117)

 無限の能力を持った想像力を、どうにか現実のものに肉づけし昇華させることが、一つの正統な生き方であると。

他にも正統な生き方があるだろうから、他のレインの著作や他の人の本にもあたって考えていきたい。

どうすればよいか、はあまり書いてないけど、どうしてこうなってしまったのか、については少しだけ書いてあった。

分裂病は先天性の部分もあるかもしれないけど、それを明らかに促進させるであろう家族や社会の振る舞いがあるということが述べられている。

それは他人に合わせて自分を隠すために身体化されたにせ自己を相手に盲従させるという振る舞いが一般的には“いい子”として肯定的に扱われるということである。

 自分自身のかわりに他者の意図や期待に、または他者の意図や期待と感じられるものに、最初、盲従するということである。ふつうこれは<いい子>であり、言われたことよりほかは何もせず、<困り者>にならず、自分がもつ反対意見を主張もしなければ漏らしもしないという、行き過ぎの状態にまでいたってしまう。いい子であるということは、そもそも、他者から善と言われるところを自分の側から積極的にしようとする欲望に発しているのではなく、他者の基準であって自分のものではない基準に対する消極的服従であり、もし本当に自分自身になるならば当然起こるであろう恐怖感によって促されている。だから、この盲従は一部分は自己の真の可能性への背信であるが、それはまた、自己の真の可能性を隠蔽し保存する方法でもある。(p131)

“いい子”として扱われることで、他人には見えない非身体化された内的な自分がどんどん肥大化していって、精神病になってしまった患者の症例について、最後の章で分析されていた。

僕も中学の頃は生徒会長をやっている“いい子”であった。大学入るまでは受験勉強という周りから与えられていたことをこなしていけばよかった。どうにか身体化されたにせ自己でそれなりに生きていくことができた。大学に入って、特に何か周りから与えられることがなく、空虚な時間をグダグダ過ごすだけになっている今の自分というのは必然的な結果だったのかもしれない。

 

 この本を読むことで自分の人生のいろいろなことを整理することができた。

僕は去年ある飲食店でバイトをしていた。身体化されたにせ自己を社員の人に盲従させてしまうので、シフトを埋めるお願いを拒否できず、大量にシフトに入った。僕は社員の人の目を気にする力に長けているから、バイトの中で一番仕事ができていたと思う。よく褒められた。でもある時、周囲の期待がとてつもない圧力に思われてきて、『やめたい』と伝えることは怖くてできなかったし、引き止められたら断れる自信もないので、制服をクリーニングして店において勝手にバイトをやめた。後から同じバイトだった人に聞いた話では、社員の人はとても心配してくれてたようで、少しだけ申し訳なくなった。

<普通>だったら社員の人にも気に入られていい待遇をしてもらっているのに、突然勝手にやめるなんて人間としておかしいのかもしれない。自分で自分はおかしい人間なんだと思ったりもした。でもそれはレインの言葉を使えば、身体化されたにせ自己に課せられた期待に呑みこまれそうになり、自己防衛として社員の人たちを石化することで情緒的なことについては思考停止し、突然黙ってバイトをやめるという行動に出ることができたということだろう。

勝手にやめるのは悪いと思いつつ、そうしなければならなかった。そんな葛藤についてもレインはこう述べている。

 分裂病質的人間では、矛盾のない単一の罪責感なるものは存在しないし、存在しえない。一般的原則として、ある罪責感はその源泉をにせ自己にもち、他の罪責感の源泉は内的自己にあると仮定してもよい。しかし、もしにせ―自己の体系がもちうる罪責感をわれわれがにせ罪責感と呼ぶとしても、内的自己を<真性の>または真の罪責感の源泉とみなすことは注意ぶかく避けねばならないであろう。(p122)

でももうこうなってくると自分でも自分が何が何だかわからなくなるね。

これからどうしていけばよいのか。まずわかったことをまとめよう。

 

一貫した自律的なアイデンティティを持ってない人間は、外界の物事の影響が自分を呑みこんでくるかのように感じられるということ。

その対処法として、孤独になるか、相手の自律性を石化し離人化させるか、身体化された自己を石化し、非身体化された想像上の自己を真の自己だと思い込むこと。

非身体化された自己は現実に縛られないため全能感に溢れるが、それは現実での虚無感の上に形成されたものであるとういうこと。

現実での自分の空虚さのため、周りの人間や世界が極端に豊かなものに見えるようになり、それを破壊したい衝動に駆られるということ。

石化し離人化した人間はモノのように利用できるため、人を利用するようにしか捉えられないということ。その裏返しとして、自分も他人に利用されることに怯え、愛やら友情やらを恐れてしまうこと。

人の盲従し、“いい子”として称賛されることで、内側の自分がどんどん空虚になっていく悪循環に陥るということ。

 

んー、非常にどうしようもないように思える。

自分のアイデンティティが何かに呑みこまれるか、それとも孤立するかのどちらか片方に陥ってしまうのが一番の問題だ。両側を状況に応じて行ったり来たりできる関係性を持てることが必要な気がする。

同じ現実であっても感じ方が全く違うことによる他人とのズレをどう乗り越えるのか。なるべく相手に伝えようとすることは重要だろう。でも逆にそのズレを強みにしてしまう方向もある。それはレインが正統な生き方として作家や芸術家を挙げていたように、肥大化した想像上のもの=非身体化された内的自己をどうにか現実=身体化された自己に接続していくということに繋がっていくと思う。それの難しいところは、何にも縛られない想像上のものと現実の倫理・道徳をどう織り合わせるのかということだろうけど。

 逆に身体化されたにせ自己からのアプローチの方法もあるかもしれない。筋トレとか運動とか、リストカットなどの自分の身体を痛めるのとは違うやり方で、身体とうまく付き合うことで、身体を取り戻す。

 

まぁうまく生きていくことはそんな簡単なことではない。

とりあえずは自分のことについて頭の中で整理することができたので、これを基準にして、これからどう生きていけばいいのかを考えながら生きていくことにしよう。

 

 『ひき裂かれた自己』をもとに『アナと雪の女王』の真実の愛について考えてみたので、こちらも是非。


『アナと雪の女王』はひき裂かれた自己をどう救ったのか - 空虚な人生を晒すブログ

 

ひき裂かれた自己―分裂病と分裂病質の実存的研究

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