自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

社会運動に対するモチベーションがわからない僕が、Twitter上で在特会デモの様子を眺めながら自分の中の差別意識について考える。

昨日は全国各地で在特会のデモとそのカウンターデモが行われたようです。

自分のアイデンティティのことを家で独りで考えてばかりで、社会運動的なものとは無縁の僕は、Twitter上でデモの様子を眺めていました。(左寄りの方の視点を通して)

 

こんな感じのツイートです↓

 

デモの一連の流れや雰囲気は東浩紀さんのレポートが参考になります。

在特会デモ&カウンター「観光」記 | ゲンロン出版部

 

僕は断然カウンター側の見解に賛成です。

しかし、僕が理解できないのはカウンター側の人たちに宿っている熱気です。社会運動に対するモチベーションと言ってもいいかもしれません。その声高に正義を叫ぶ熱気は羨ましくもあり、理解できないことでもあります。その熱気は一体どこから湧いてくるのか。

逆に考えれば、どうして僕には社会運動に対するモチベーションが全く湧かないのか。結局僕は自分のアイデンティティについて考えることにしか脳を使えないので、このことについて考えようと思います。

 

まず思い浮かんだのは、僕が中学2年までいじめを散々してきたことです。今から考えてみると、僕はバリバリのレイシストでした。とても情けないことです。

中学の頃の同級生には、フィリピンと日本のハーフの子が3人いました。ただ肌が“普通”より黒いというだけで、周囲の人間はいじったり悪口を言います。僕も率先して3人の悪口を言っていました。時には明らかに本人の気付くようなやり方で。他にもテストの成績が悪かったり、天然パーマだった人をただそれだけの理由でいじめたこともありました。

そんなひどいことをしている一方で、僕は生徒会長を務めていました。表面はよく裏では率先していじめをしていた僕のような汚い人間は、中学生活2年の後期あたりから、簡単にいじめられる側へ立場が転覆しました。1年半、事務的なこと以外の会話を友達としない中学生活を送りました。自業自得です。

 

差別はしない方がいい。そう思うようになったのは、自分がいじめられて辛い思いをしてからです。僕はそんな経験がなければ差別の残虐さに気付けない弱い人間です。

高校に入学してからは、差別意識は心の中に閉じ込めるようにしました。誰とでも仲良くしました。表面的な友達は学年で1番多かったと思います。しかし『自分も辛い思いをしたから。』という理由だけで心の中に閉じ込めた差別意識は、差別しても自分が辛い思いをしなくてよい場では顕在化していきます。時々、ホームレスやニートや障害者をネタに友達と笑い話をしていました。僕にとって『自分も辛い思いをしたから。』という正義感が通じるのは、学校という自分にとって大事な空間の中だけの話でした。

 

そんな僕は大学に入り、家にひきこもりがちになりました。何をするモチベーションも湧いてきません。ただ空虚な毎日を過ごしているだけでした(今もあまり変わってないけど)。ゼミが始まり、ただ何となく研究室にあった社会学や政治学の本を手に取ってみました。すると、そこに書かれていることに吸い込まれました。僕のような、自分を空虚な人間としか感じられない若者について論じられていたからです。1年間本を読み続けわかってきたことは、僕が、存在もしない理想的な“普通”にあまりに固執し、どこにいても何をしても理想的な“普通”を追い求めてしまい、その結果として、どこにいても何をしても“普通”以下の自分しか感じられず、自己否定ばかりしていて、あらゆることが空虚に感じられてるということです。

“普通”に固執し自己否定をすることは、他者に対する差別に容易に繋がります。自分は“普通”になろうと頑張っているから、“普通”ではないくせにノウノウと生きている奴を見るとむかついてくるのです。差別をしなければ、自己を正当化することができません。差別こそが自分のアイデンティティの核だったのです。僕にとってフィリピンと日本のハーフの子や成績の悪い子や天然パーマの子はその対象でした。僕にとって彼らは“普通”ではなかったのです。学校という空間で理想的な“普通”を目指していた僕が生徒会長になったのも必然性があったと今では思います。いじめが発覚した時は『生徒会長なのになんでこんなことするの!』と先生に怒られたけど、今考えるとその論理はおかしくて、生徒会長になることといじめをすることの間には実は同じ原理が貫かれていたのです。

 

どうして僕はこんな差別的な性格になってしまったのだろうか。

1か月前に実家に帰り、家族と外食した時に驚いたことがありました。店に入り席に着くや否や、母も姉も兄も、周囲の客を見て浮いている人を見つけては非難をするのです。この前は家族みんなが太っている人たちを見て嘲笑していました。また、店員の手際が悪いとこを見つけては文句の嵐でした。なぜ僕が今更こんなことに驚いたかというと、大学で社会学や政治学の本を読み、それまでの自分の常識という偏見を脱ぎ捨てているからです。するとそれまで僕の常識を形作っていた家族の言動に驚きを感じるようになりました。逆に言えば、僕はそれらの学問に出会ってなければそんな家族の異常性に気付かなかったということです。大学生になるまで19年間、僕は強烈な差別意識を醸成させる環境の中で育ち、それが当たり前なのだと信じきっていたのです。そのことにやっと最近気づけました。恐ろしいことです。

 

そんな環境の中で生きてきたことで僕の中に醸成された“普通”の理想化と、その裏面の差別意識。もはや高校までの学校という狭い空間を離れた僕には、それこそが僕の人生そのものを空虚にしてる原因だと思っています。高校の頃に学校の内と外を分けて差別意識を管理していた時と違い、社会学や政治学を勉強した今となっては、あらゆる差別や偏見と僕が理想化された“普通”に固執することは1枚のコインの裏表であり、人生そのものを空虚にするものなのだという意識があります。それは自分をも他者をも不幸にする不毛な行為です。

しかし、19年間で自分の身体に染み付いた差別意識はそう簡単に払拭できるものではなく、今でも“普通”でない人を見ては脊髄反射的に拒否してしまう感覚が自分の中にあるのが正直なところです。

 

いくら差別が相手をも自分をも傷付けるものだと頭ではわかっていようとも、身体は“普通”でない人に拒絶反応を示してしまう。思考と身体が不統合で、一貫した正義感を貫くことができず、自分の正義感なんて所詮偽物なのではないか、と後ろめたさを感じずにはいられない。その自分の正義感に対する不信こそが、声高に正義を主張できるカウンターデモ参加者に対する羨望と、そのモチベーションの理解できなさの原因なのだと思います。