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自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

自己認知のために、ニヒリスティックに『特定秘密保護法に反対する学生デモ』に参加しよう。

10月から大学の後期日程が始まると共に、大学を休学して家にひきこもり状態だった先輩が久し振りに大学に姿を現した。実に2年ぶりである。

先週、その先輩と飲みに行った。話の内容といえば、人とのコミュニケーションの難しさ、コミュニケーションにおけるトラウマ、バイトで怒られることに耐えられずやめた話、2chのまとめサイトの話、政治や社会に対する興味の無さ、などなど。

上の世代の人たちが『これだから最近の若者は…!』と説教する時に使えるネタランキングBEST10を占めるであろう話ばかりであった。

 

その先輩は、大学に復帰してから1か月、見えない何かを掴もうと頑張っている。アイデンティティに関する本を読んだり、人に話を聞きながら、何が悪いかわからない自分の中の何かを変えようとしている。見えない何かを掴もうとする努力は見かけ以上に体力を消耗するのだろう、先輩は平気そうな顔をしながら、一日が終わるごとにお酒を飲んでいる。この努力がいつまで持続するかわからない。

 

先週飲んだ時に、『僕らは政治的なものに関心が全く向かないけどさ、社会運動をしてる学生団体もあるんですよー。』と、最近知った特定秘密保護法に反対する学生有志の会SASPLのことを話した流れもあり、一昨日先輩に↓の動画を見せてみた。

 


【SASPL主催】特定秘密保護法に反対する首相官邸前抗議 - 2014.10.10 - YouTube

 

動画を流してる間、先輩は『ひゃは、ひゃはははは。』みたいな感じで笑っていた。『これ見てどう思う?』と聞いたところ、『こんなんで社会が変わると思ってるのが面白かった。』と言っていた。典型的な冷笑主義である。

僕も冷笑主義者なので、特に何も言い返さなかったけど、先輩や僕のような人間の冷笑主義の中には何が潜んでいるのだろうか考えていた。

 

先輩は『こんなんで社会が変わると思ってるのが面白かった。』と言った(僕もそう思ってしまう部分がある)が、実際に運動をしている人たちがどのくらい社会が変わると思ってるのかどうかは、あの動画からは読み取れないだろう。

 

 


特定秘密保護法に反対する学生デモFINAL@SHIBUYA告知CM - YouTube

 

例えば↑の告知動画を見ただけでも、

『この社会はそうよくならない』『安部政権じゃなかったとしても何かしらきっと問題があるだろうし』『全部変わると思ってない』という言葉が並んでいる。そうした諦念がある中で、『確実にこれは何かが変わる一歩なんだ』と言っている。

 

『こんなんで社会が変わると思ってるのが面白かった』と冷笑する側と、『全部変わると思ってない』けど社会運動をしている側の人たちが、それぞれ“社会が変わる”という言葉に対して読み取るものに何か大きなズレがあるように思う。

 

一つ目の官邸前抗議のデモの動画を見た時に発せられた『こんなんで社会が変わると思ってるのが面白かった。』という言葉に反映されているのは、社会運動をしている人たち側の意識ではなく、見ている側の自意識なのだろう。0か100かでしか物事を考えられない自らの思考パターンを画面の向こう側にいる人たちに投影することで初めて、『こんなんで社会が変わると思ってるのが面白かった。』と冷笑することができる。きっと画面の向こう側の人たちは0か100かの考え方なんてしていない。『こんなんで社会が変わると思ってる』のは本当は自分なのだ。自意識を誰かに投影し、自らの思考の責任を相手に擦り付けることで、自分を安全な位置において誰かのことを笑うなんてことは、冷笑主義者によくあることだ。本当は自分のことを笑っているにも関わらず。

 

Ustream.tv: ユーザー iwakamiyasumi5: 141022_学生有志の会・SASPLによる「特定秘密保護法に反対する学生デモ FINAL@渋谷」についての記者会見, Recorded on 2014/10/22. Politics ...

 

記者会見の中でSASPLの人たちは、冷笑主義やニヒリズムに断固反対している。確かに冷笑主義やニヒリズムは社会運動的に生産性は無いだろうし、自意識を勝手に投影してくる人たちに対しては誰でも反対したくなる。

 

でも冷笑主義・ニヒリズムが身体にこびりついて剥がすことのできない僕からしたら、ただ反対されても困るしかないのである。

冷笑主義・ニヒリズムは自己防衛的な部分が大きい。自意識を相手に投影することで、自分を棚に上げ、相手を笑えるのだから。冷笑主義・ニヒリズムを好きでしているわけではない人も多いと思う。むしろそうしなければ生きていけない人もいる。

 

先輩と飲んだ時に、先輩はこんな話をしてきた。

『誰かが自分のことを理解してくれるとは到底思えないから、恋人も結婚もできないと思う。』『バイトしてた時にミスしたら社員の人に少し怒られて、それから嫌になってバイトに行けなくなった。』

『何を甘えたこと言ってんだ!』と怒られそうな悩みではあるが、2年間ひきこもりをするまでになってしまった先輩にとって切実な悩みだということを、僕は近くにいてよく感じている。しかし、このような悩みの中にも、0か100かでしか物事を考えられない思考パターンが潜んでしまっているのだと思う。『誰かが自分のことを理解してくれる』ことに100を求めてしまったら、そりゃあ恋人や結婚なんて無理だろう。バイトで社員の人に怒られない=100を目指してしまうからこそ、少しでも怒られたことに耐えられなくなってしまうのだろう。

 

先輩は0か100かでしか物事を考えられないことの弊害を、あらゆるところで被っている。その精神的苦痛は計りしきれない。『こんなんで社会が変わると思ってるのが面白かった。』という先輩の冷笑的な言葉の裏には、そんな背景があるのかもしれないな、と思った。誰かを冷笑することだけが、唯一自分が安心を得られる行為になってしまっているのかもしれない。

自分を投影し相手を笑っているということに気づかずに、ただ相手を冷笑することで、かろうじて保たれる精神の平静がある。まさに自分もそういう人間だからこそ、僕は冷笑主義やニヒリズムをただ反対されると困るのである。

 

だからといって、ニヒリスティックに冷笑しているだけでも仕方がない。冷笑したくなる対象は、往々にして自分には無いものを持っている人たちだ。自分には無いものを持っている人たちをバカにしているだけでは、自分のことを理解することもできない。自分には無いものを持っている人たちの視点を知り、そこから自分を眺めるからこそ、自分の理解に近づくことができる。それは自意識を相手に投影することとは真逆のことである。

 

自分のことを知るためには、自分が冷笑したくなることこそよく見たほうがいいはずだ。だから別に社会運動をしたいという気持ちは湧いてこないけど、10月25日の特定秘密保護法に反対する学生デモを実際に見て行こうと思う。大学で同じ学科に冷笑主義やニヒリズムに反対を表明している人がいたら、一番友達になりたくないと思うし、それこそ一番冷笑の対象にしたくなるけど、だからこそそんな人たちが集まりそうなデモを見に行こうと思う。

 

でもこういうことしようとすると、0か100かでしか物事を考えられない僕のような人間は、『デモ見に行って私は変わりました!』って幻想に自分を無理に当てはめようと努力しちゃうか、デモを見に行って結局何も思わなった自分に対して自己嫌悪を感じてしまうという未来が容易に想像できる。

 

だからこそあえて、自己認知のために、ニヒリスティックに『特定秘密保護法に反対する学生デモ』に参加しよう!という心構えで行こうと表明したい。

『別に社会運動とかする気しないよなー。』という気持ちは、デモを見に行ったところで変わるようなものじゃないと思うけど、見に行く前の『別に社会運動とかする気しないよなー。』と、見に行った後の『やっぱり別に社会運動とかする気しないよなー。』の間には何か違いが生じるのか、そしてそれを通して自己認知は何か変わるのか。その微妙な変化のあるなしを楽しみましょー!っていうのが、自己認知のために、ニヒリスティックに『特定秘密保護法に反対する学生デモ』に参加しよう!ということである。

そしてそれは冷笑主義・ニヒリスティックな人からしたら立派な社会運動である(断言)

 

 

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