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自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

『二十歳の原点』 ー独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点であるー

◎四月二十四日(木)

四・二八を迎えるにあたって

 現在の日本に生活する人間の生活を基本的に決定している佐藤自民党政府、そのうらに存在する独占資本家に対しての反逆を、ここに行なうことを宣言する。

 私は何よりも自由と平等を愛する人間である。自由平等であるべき人間を支配し、搾取し、収奪し、圧しつぶしている日本帝国主義国家に対し、ここに圧しつぶされぬ人間のいることを行動でもって提示し、人民の力強い闘志を示す。国家がいかに強大な権力をもっていても私は屈することはないだろう。

 私には真理が、正義が、愛がある。私は世界の人民とともに日本帝国主義国家に闘いをいどむ。

                 一九六九・四・二四 九・〇〇AM

 

 暗闇でもなく、明るい光線にみちあふれているのでもなく、ぼんやりとした何もない空間の私の世界。国家権力、そんなものは存在しているかさえ定かでない。私自身の存在が本当に確かなものなのかも疑わしくなる。他者を通じてしか自己を知ることができぬ。他者の中でしか存在できぬ、他者との関係においてしか自己は存在せぬ。自己とは? 自己とは? 自己とは?……

 朝起きたとき肺のあたりがいがらっぽくむせた。煙草ののみ過ぎで肺ガン、あるいは肺結核かもしれない。結核菌よ。悪性腫ようよ。どんどん私をむしばむがよい。

 甘えてはいけない。他者を通してのみ自己を知ることができるが、自己の存在は自分で負わなくてはならない。生きていくのは自己である。他者の実存を実存として認めよ。

 すべては夢であり、幻想である。現実などありゃしない。誰かが私を、気がおかしいのじゃないかといったが、これからますます気がおかしくなっていくように思う。狂人になり、精神病院で暮せるようになれば幸い。そしたら私は全く自由になるだろう。

 私は非常にうそつきである。言葉を放った瞬間に、うそだなあと感じ、あるいはしばらく経ったあと、あれはうそだったと思ったり。 

 沈黙は金。

 私のファザーコンプレックスはますますひどくなった。いつでも男を求めている。

 

 何故私は自殺をしないのだろうか。権力と闘ったところで、しょせん空しい抵抗にすぎないのではないか。何故生きていくのだろうか。生に対してどんな未練があるというのか。死ねないのだ。どうして!生きることに何の価値があるというのだ。醜い、罪な恥ずべき動物たちが互いにうごめいているこの世界!何の未練があるというのだ。愛?愛なんて信じられぬ。男と女の肉体的結合の欲望をいかにもとりつくろった言葉にすぎぬ。しかし、私はやはり自殺をしないのだ。わからぬ。死ねぬのかもしれぬ。(p120-122)

 

 

 日頃から読書をしながら生きていると、『あ、この本は、まさに今この瞬間の自分が読むべき本だな。』と感じられる本との出会いが稀にある。

 高野悦子さんの『二十歳の原点』は、今の僕にとって、そのような出会い方のできた本であった。

 

 『二十歳の原点』は、高野悦子さんの二十歳の誕生日である1969年1月2日から1969年6月22日までの、約半年間の日記をまとめた本である。高野悦子さんが立命館大学で学生生活を過ごした1960年代後半は学園闘争全盛期で、人間を疎外する資本主義社会と、それに抗う学生を目前にする中で、確固たる自己を確立しようとした飽くなき葛藤が日記に綴られている。その確固たる自己への探求は、『学園闘争時代の学生は自らの正義を貫き、社会に反抗したんだ。』という、団塊の世代の人たちの半ば美化された思い出ばなしとは一線を画している。冒頭で引用した日の日記に象徴されているように、社会に対する反逆を力強く宣言したと思えば、その直後に、国家権力や自分という存在について徹底的に疑ってしまうほど、高野悦子さんの葛藤は錯綜を極めている。そこには純粋なる真理・正義・愛・自由・自己を徹底的に追い求める姿勢が感じられる。

 自分とは過ごした時代や社会状況が大きく異なるし、真摯な高野悦子さんと自分を比べるなどおこがましいことではあるが、自分に通ずるものを感じたのも事実であるので、この本を通して自分について考えていこうと思う。

 

 僕が『二十歳の原点』は、まさに今の自分が出会うべき本だったな、と思った大きな要因の一つは、最近デモに初めて参加したという経験があったことだ。

 10月25日の特定秘密保護法案に反対する学生デモに参加したのだが、僕はデモに行く前に、社会運動に興味はあるがそこまで気分が乗らず気持ちよく反対を表明できそうもない自分を守るため、長ったらしい言い訳をブログに書いた。


自己認知のために、ニヒリスティックに『特定秘密保護法に反対する学生デモ』に参加しよう。 - 空虚な人生を晒すブログ

 

そしてデモ当日も、ふざけたような自作のプラカードみたいなものをぶら下げて参加した。

 

 正直、SASPLの人たちの魂のこもったスピーチとか、デモに参加している人たちの秘密保護法案に対する反対の声に囲まれる中で、こんな意味のわからないプラカードみたいなものをぶらさげて参加している自分は一体何なんだって惨めな気持ちになった。  

 自らの正義を表明する人たちと共に反対の声を発することは確かに気持ちの良い経験だった。自分の意見を言うのが怖い人でも、周りに平気で声をあげる人たちがいると、そこまで勇気を持たなくとも自分の意見を周りの人の声に乗せて発することができるから、デモはとてもいい空間だと思った。

 それでも、僕はやっぱりデモに参加している周りの人とは根本的に違う問題を抱えているのではないか、という感覚がデモ中もずっと拭えなかった。僕は2000人を超えるデモの参加者に囲まれていながら、自分は独りであると感じた。自分は特定秘密保護法がどうなろうが実際はどうでもいいと思っているのではないかと思った。

 そんな僕の社会運動への対し方と、高野悦子さんの学園闘争への対し方に、少し似たものを感じた。

 

 高野悦子さんは時には

私は眼前のバリケードを見ながら、「闘うぞ」と思った。あのバリケードは国家権力の否定、自己のもつブルジョワ性の否定のバリケードなのである。(p60)

 などとカッコイイことを言いながらも、

 闘ったところで何になる。微弱な風にとぶほこりに過ぎぬのではないか。いやあ ぼかあ こんなことでは負けませんぞ。ぼかあ 闘ってますぞ(泣きそうな顔してんじゃないの てめえは)(p119)

 と、自分のしていること無意味さを綴ったり、気の抜けた言葉で自分を誤魔化したりする。

 私は要するに「心情的全共闘派のインチキ学生」であるのだ。(p50)

と、痛烈に自分の信念の無さを非難もしだす。

 特に、僕が高野悦子さんの表現で共感してしまったのは

やるぞお ぼかあ闘いますぞお(p108)

という表現だ。

 団塊の世代の人たちが半ば美化しながら語っているように、学園闘争という空間には、『自らの正義を貫き闘うぞ!』みたいな雰囲気が漂っていたと思う。少なくとも高野悦子さんの目には周りの人がそのように見えていたと思う。自分はそんな一貫した立場を取ることができない、自分の中にはそんなことを表明できるほどの根拠が存在していないという気持ちが

 やるぞお ぼかあ闘いますぞお(p108)

という表現に現れているのだと思う。

 僕がこの表現に共感してしまったのは、僕がデモの前に長ったらしく言い訳をして『ニヒリスティックにデモに参加しよう。』なんて言ったのも、当日『政治に無関心』であることをわざわざ書いたプラカードみたいなものを用意したのも、要するに

 やるぞお ぼかあ闘いますぞお(p108)

 ということだったからだ。一貫した立場から距離を取り、少しおちゃらけな表現をしなければ、参加することができなかったのである。

 

 どうしてそうなってしまうのか。やっぱりそこには、自分という存在の中にある矛盾や不確実性が問題の中心を占めているのだと思う。

 高野悦子さんの『二十歳の原点』は、学園闘争という視点から見れば、一貫した正義の感じられない気分屋のしょうもない日記に見える。しかし、自分の中の矛盾を克服しようと、確固たる自分を探求しているという視点から見れば、そこには高野悦子さんの一貫した姿勢が浮かび上がってくる。

 

民青を支持したとしても、反民を支持したとしても、どっちにしろ批判と非難はうける。絶対に正しく、絶対に誤っているということはないのだ。どっちかを支持しなくては行動できないのかもしれないが。

 この言葉の中に、非難をうけないように、勢力のある方につこうという、ずるい態度があるのだ。私は小学校、中学、高校と、それぞれの生活環境に順応―非難をうけないよう-しながら生きてきた。立命という大学に入って学生運動に関心をもつのも、その環境に順応しようという一面があるのではないか。大事なことは、「私」がどう感じ、どう考えたかということではないのか。(p18)

 

二、三日前、友達と話をしていて、大学卒と中学卒、短大と四年制大との差別意識をあらためてつきつめられたが、私は女として、私大生として差別されながら、自らも差別意識をもって差別しているのである。この自己矛盾……。(p60)

 

私には「生きよう」とする衝動、意識化された心の高まりというものがない。これは二十歳となった今までズットもっている感情である。生命の充実感というものを、未だかつてもったことがない。

 私の体内には血が流れている。指を切ればドクドクと血が流れだす。本当にそれは私の血なのだろうか。(p66)

 

臆病である自分が本当にいやだ

びくびくしていて、もっともらしく、やさしくていねいにしている私

本当の私とは一体何なのか(p89)

 

 自分の中に存在している矛盾から目を逸らすことができず、矛盾が存在していることに耐えられない高野悦子さんは、真の自分を手に入れるため、だんだんと強迫的に自らの内に存在する矛盾を解消しようと苦心する。

 

 私は今、生きている。私にはいろいろな矛盾と混沌がある。私は何故たたかったのか。そして何故たたかうのか。それを探るために祖父のことから父母、学校、戦後史をやってみたい。これから図書館(立命)に行って、「戦後史」を読もうと思う。(p134)

 

 訪米阻止!のシュプレヒコールを私が叫んだとて、それに何ができるのか。厳として機動隊の壁はあつい。私自身のうけるもの、あせり、いらだち、虚無感(デモの最中の)、ますます広がる混沌さ。論理化を!論理化を!(p162)

 

 生きることは苦しい。ほんの一瞬でも立ちどまり、自らの思考を怠惰の中へおしやれば、たちまちあらゆる混沌がどっと押しよせてくる。思考を停止させぬこと。つねに自己の矛盾を論理化しながら進まねばならない。私のあらゆる感覚、感性、情念が一瞬の停止休憩をのぞめば、それは退歩になる。(p166)

 

思い返してみると、僕が社会運動に参加する人のモチベーションが理解できないことをブログに書いた時、僕が悩んでいたのは自分の中に存在している矛盾であった。


社会運動に対するモチベーションがわからない僕が、Twitter上で在特会デモの様子を眺めながら自分の中の差別意識について考える。 - 空虚な人生を晒すブログ

 

 

 

 資本主義社会に反抗するという正義とは違う、自分にとっての一貫した真の正義を、真の自己を、真の自由を、真理を追い求めた高野悦子さんは、1969年6月24日の未明に鉄道自殺をし、自らの生に終止符を打った。

 

 団塊の世代の人たちは、『正義を貫き資本主義社会に抵抗したのだ。』と得意げになる一方で、大学を卒業したらそれまでの反抗はどこへやら、平然とサラリーマンになっていった人も少なくなかったとよく言われている。

 大人になれば労働をすることは生きていくために不可避なことだ。それまでの理想や信念と折り合いをつけながら生きていかねばならない。それは矛盾を受け入れることである。そんな現実を考えるならば、生活から離れ、抽象的な世界に浸ることができる大学生のうちに自殺した高野悦子さんは、もっとも真の正義や真の自己や真の自由や真理に近づいた状態で生を終わらせたと言えるかもしれない。崇高な自殺であったと言えるのかもしれない。

 しかし、その自殺へと至った道は日記の中で論理化されることはなかった。あれほど自分の中の矛盾の解消を日記の中で求めていた高野悦子さんなら、論理化できたのなら日記に綴っていたはずである。そう考えると、自殺は自分の中の解消できない矛盾を受け入れる方法の一つだったのかもしれない。

 

 一方の極には社会の歯車になり生活に埋没することで自分の中の矛盾を棚上げするという道があり、もう一方の極には自分の中の矛盾の解消を推し進めていった結果、自殺という形で自分の中の矛盾を受け入れるという道がある。

 

 僕はこれからどのような形で自分の中の矛盾を受け入れていけばいいのだろうか。それが『二十歳の原点』から学んだこれからの課題である。

 

 世の多くの人たちは、自分の中の矛盾を意識することなく、時には意識的に目を逸らしながら生きている。そんな中、自分の中の矛盾と真っ正面から向き合あざるを得ない人間は、周りの人間全てが嘘をついて生きているように思え、人間不信となり、孤独を極めることだろう。自分の中の矛盾と向き合い、矛盾が解消された一貫した自己という理想を抱けば抱くほど、それに到達しない現在の自分は未熟に思えて仕方がないことだろう。

 そんな未熟な人間の孤独な自分との闘いが、

やるぞお ぼかあ闘いますぞお(p108)

という言葉に象徴されるような、一見ヘラヘラした言動の奥底で繰り広げられているということに悲劇を感じる。

 自分の意見を声高に主張できることの方が賞賛されやすい世の中で、ヘラヘラした言動の奥底で繰り広げられている自分の中の矛盾との葛藤は、ほとんど陽の目を浴びることはない。だから高野悦子さんも、私的な日記という空間で闘うしかなかったのだろう。

 

独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である

 

 

 

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