自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

統合失調気質な母親と、統合失調気質な僕の関係について

 昨日、姉の結婚式がありました。結婚式の前日に帰省したのですが、その時に精神科医で精神病理学を研究している加藤敏さんの『人の絆の病理と再生―臨床哲学の展開』を電車の中で読んでいました。その本を読むことで自分の性格ついて整理することができ、そして結婚式やそのための準備を通して自分と母親の関係についての認識も深まったように感じたので、そのことについて書いていこうと思います。

 

 加藤敏さんは著書の序文の中で、『人間の基本的なパーソナリティとしてこれら三つのパーソナリティ構造に注意をはらうことは、人と人との絆を考えるうえでも生産的であると考える。』として、『人間のパーソナリティ構造には、①真・善・美に対し「自然な自明性」をもち、虚偽に満ちた俗世間を生きることが苦手な「統合失調スペクトラム」、②これと逆に俗世間に対し「自然な自明性」をもち、他人との(感情的な)共鳴性と協調性が豊かな「躁うつスペクトラム」、③フロイトのいうエディプス・コンプレックスを基盤にして他人に対しはっきりした愛憎の感情を抱く「神経症スペクトラム」』と3つのパーソナリティ構造を区別しています。もちろん①と②と③は理念型として区別してあるだけで、一人の人間の中に比率は違えど同居してるものです。

 

 この3つのパーソナリティ構造のうち、「統合失調スペクトラム」が自分によく当てはまると思いました。

  著書の第九章において、統合失調スペクトラムについて『概して、彼らは俗世間への自然な参入、つまり等身大の対人関係が苦手で、いわゆる社会生活技能にたけていない。別な角度からいえば、彼らは純粋かつ正直で、いわゆる世俗社会のなかで「調子よく生きていく」ためのほどよいいい加減さ、ひいては嘘をつくことが苦手である。』と述べられてます。

 

 自分で言うのも恥ずかしいことですが、僕は純粋に物事を考えてしまうところがあると思います。このことを恥ずかしいと感じてしまうのは、『世俗社会のなかで「調子よく生きていく」ためのほどよいいい加減さ、ひいては嘘をつくこと』ができる「躁うつスペクトラム」の人たちの価値観が支配的な俗世間の中に浸りながら今まで生きてきたからだと思います。恥ずかしい恥ずかしい、と僕が抑圧してきたような純粋かつ正直な思考をしてしまうパーソナリティ構造があると考えられるのだから、そのことを抑圧せず受け入れて考えなさい、とこの本に教えられたようで少し胸が軽くなりました。

 

 そんなことを考えている中で、姉の結婚式がありました。結婚式は、新郎新婦双方の親族・同僚・友人が参加するため、礼儀やマナーを普段以上に気にしなければならない行事です。「あぁ、なんで礼儀やマナーを過度に気にしなければならないようなめんどくさい場を結婚の愛の表明のために用意するのだろうか。形式的に神に愛を誓ったところで離婚してしまった夫婦など大量にいるだろう。本当に愛しているのだったら…」なんてことを神父さんが「アーメンアーメン」言ってる最中に考えてしまった僕は、やはり「統合失調スペクトラム」の傾向があるな、と思いました。

 

 そんな僕に対して、礼儀やマナーについて一番うるさく言ってきたのは母親でした。何日も前から「スーツクリーニング出して。」「綺麗なワイシャツとネクタイはあるか。」「髭をそりなさい。」「爪を切りなさい。」「靴を磨きなさい。」と事細かに言ってきては、必ず「そうしないと恥ずかしいから。」という言葉を付け加えてきました。母親は世間体ばかりを気にする人間です。姉に対しても「祝儀金は相手の親族と合わせないと何言われるかわからないから、相手の親族の金額がわかったら教えて。」と言っていました。ついでに「お金の問題は一生言われるからね。」とすごい形相でアドバイスをしてきました。こんな世間体ばかり気にする母親に困らされてきたことがよくありました。僕の母親は、僕が大学受験に落ち、浪人せずそのまま公務員になろうとした時に「今までの教育はなんだったのよ。」と泣き崩れるような母親です。高校→大学→就職という世間的に恥ずかしくないレールから僕が外れることが許せないようでした。僕にとって母親は俗世間の権化のようなものです。

 

 結婚式では披露宴の最中に相手の親族に挨拶に行ったりしました。その時も母親は、「あの人に挨拶にいかなきゃ。あの人にも行かなきゃ。あの人にも、あの人にも…。」とやはり世間体ばかり気にしていました。そのくせ、挨拶に行くと特に相手と積極的に話をするわけでもなく、無表情で受け身でいることが多かったです。

 結婚式中も『あの人は「躁うつスペクトラム」の傾向が強いなー、あの人は「統合失調スペクトラム」の傾向が強いなー。』とか考えていた僕は、そんな母親を見ていて、『あれ、この人はまぎれもなく「統合失調スペクトラム」の傾向が高い派の人間なんじゃないか。』と思いました。そして、どうしてそんな人が僕を世間体で縛ってくるのかを考えていました。

 

 そんなことを考える中で、「統合失調スペクトラム」の傾向が強い親が、子どもに世間体を過度に押し付けてしまうことに対して少し納得をすることができました。

 

 俗世間に対し「自然な自明性」を持っている「躁うつスペクトラム」の傾向が強い人は、儀礼やマナーは「自然な自明性」であり、また儀礼やマナーの中で生きていくことと自分の喜怒哀楽が接続されています。それとは反対に、「統合失調スペクトラム」の傾向が強い人間は、俗世間が「自然な自明性」ではなく、そこで繰り広げられている儀礼やマナーの中で生きていくことと自分の喜怒哀楽は接続されていません。そんな人間でも、社会の中で生きていくためには俗世間に参入しなければなりません。その時に「統合失調スペクトラム」の人間特有の悩みが生じてくると思うのです。

 俗世間が「自然な自明性」であり、儀礼やマナーと自分の喜怒哀楽が接続されている「躁うつスペクトラム」の傾向が強い人であるならば、例えばある空間で1から10までの儀礼やマナーが求められる時に、1から7までは既に当たり前のものとして自分の喜怒哀楽に結び付いているから意識する必要もなく、残りの8から10までを取り入れていけば良いという感覚なのだと思います。そして8から10までの儀礼やマナーを取り入れることも、自分の喜怒哀楽となりやすいのでしょう。

 それに比べ、俗世間が「自然な自明性」ではなく、儀礼やマナーと自分の喜怒哀楽が接続されていない「統合失調スペクトラム」の人は、ある空間で1から10まで儀礼やマナーが求められる時、1から10までを意識的に学ばなければならないし、それは「躁うつスペクトラム」の傾向が強い人に比べ、喜怒哀楽には結び付きにくいのだと思います。要するに「統合失調スペクトラム」の傾向が強ければ強いほど、意識的に学ばなければならない量が多く、そのうえ感情に結び付きにくいので、一つ一つを身につけるための労力が大きいのだろうということです。

 

 きっと僕の母親が「恥ずかしいから」と世間体ばかり気にしているのは、「統合失調スペクトラム」の傾向が強い故の結果なのだろう、と思いました。自分が俗世間の中で生きていくことの困難や辛さを痛感しているからこそ、子どもがそうならないように俗世間でうまくいくレールに何とか乗せてあげたい、と親が考えるのは自然なことではないでしょうか。しかし、そんな親が子どもに教育する“俗世間”は、あくまで「統合失調スペクトラム」の人から見た“俗世間”でしかなく、それを学んだ子どもである僕は俗世間に対して「自然な自明性」を持てない「統合失調スペクトラム」の傾向が強い人間になったようです。母親の愛とは裏腹に、俗世間で調子よく生きていくことができないパーソナリティに育ち、なおかつ、僕にとって苦痛な俗世間の一番の権化は母親であるというのは、何と皮肉なことでしょうか。

 

 そんな構造があるため、僕は自分の困難を母親の責任にしてしまいがちです。しかし、それは、俗世間に対して困難を抱えているであろう母親に対し、自分が俗世間に対して困難を抱えていることの責任を押し付けるという泥沼状態です。同じ悩みを抱えている者同士が共感できずに反発してしまうとは何と悲しいことでしょうか。これは「親」と「子」という関係であるからこそ生まれた悲劇なのかもしれません。僕の母はきっと子どものために「親」という俗世間的な役割を1から10まで意識的に遂行しようとしたからこそ、自分の弱さを子どもに曝け出すようなことは決してしなかったのでしょう。それが同じ悩みを抱えながら決して共感はできないという事態を生み出しているのだと思います。

 

 母と僕は、俗世間で調子よく生きていくことができないという同じ悩みを抱えているであろうということが想像できるようになった今、自分の困難を母親一人の責任に押し付けることはできません。そして子どもにとって俗世間の権化となることが、母親が自分が苦痛に晒されながらも子どもに注いだ精一杯の愛であったことを想像することもできます。たとえそれがパウロ・フレイレが『被抑圧者の教育学』の中で述べていた「子どもの可能性を奪い、死に至らしめる愛」であったとしてもです。自分の娘がイグアナにしか見えないがために、素直に娘を愛することができなかった母親自身が実はイグアナであった…、という萩尾望都さんの『イグアナの娘 』のような話です。

 

 母親の僕に対する愛は、教育的には理想とかけ離れた愛だったのかもしれないけど、それを教育的な影響の観点からのみ断罪することは、母親が味わってるであろう苦痛に対する想像を欠いた行為であり、母親の人生そのものをただ否定することになってしまいます。しかし、だからと言って母親の愛を無条件に肯定し、自分の可能性を奪われる状況にわざわざ陥ることもありません。これからは、母親の僕に対する愛を尊重しながらも、自分の人生を大切にできるような親子関係を模索していきたいと思います。

 

 

人の絆の病理と再生―臨床哲学の展開

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被抑圧者の教育学―新訳

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イグアナの娘 (小学館文庫)

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