自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

合唱曲から自己分析


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 ちょっと動画を載せすぎた感がありますね。懐かしい曲がいくつかあったんじゃないでしょうか。合唱曲など聞きたくない人もいるかもしれませんが。

 

 最近、お風呂の時とか夜寝る前に合唱曲を流しまくっている。最近というか結構前からちょくちょく聞く癖はあるのだけど。

 基本、人前で感情を露わにするのが苦手な僕ですが、家で独りで合唱曲聞いて号泣しておるよ。一種の退行でしょうかね。

 号泣すると言っても、涙が出る理由がよくわからなかったりするわけです。ただ合唱曲聞いてまともに歌詞に感動して泣けるほど、僕は素直な心を持ってるわけないですし(黒笑)それに、何やら辛い気持ちも湧いてくる。そして無力感も湧いてくる。

 自分でもよくわからないのにそうせずにはいられないことの中に、自分を知るヒントがあるってのはよくあることです。だから、自分はなぜ合唱曲をこんなに頻繁に聴いてしまうのか、なぜ涙が出てくるのか、なぜ辛い気持ちが湧いてくるのか、なぜ無力感が湧いてくるのか、そんなことをなんとなく最近考えていました。

 

 そんな時、昨日、こんな僕のブログを分析してくれている、「良い子」の社会学研究をしてる人と出会い厨をしていろいろ話をした後に、「俺は良い子なのかー、俺の中の良い子性はどこらへんだー」とか少し考てたら考えが進んだので書こうと思った。

 

 まず、合唱曲は聞いていて懐かしいと思えて、その懐かしさが何だか心地よい。多分その心地よさというのは、子どものころに地に足が着いていた感覚があったことや、自分にとって世界が十全であったことの安心感を思い出しているからだと思う。22歳絶賛人生迷走中ともなると、全然地に足を着いて生きている感覚がないし、世界が広すぎて絶望してばかり。一体どこが自分の生きている世界なのかわからない。それに比べれば子どもの頃は親や先生に自分の存在を預けてしまえば良かったし、学校や家族という狭い世界の中だけを信じて生きていれば良かった。誰しもがそんな子供時代を送れるわけではないけど、猫被るのが上手な良い子だった僕はそうだったんだろう。合唱曲を聞くことで、22歳絶賛人生迷走中の現実から目を逸らし、過去のそんな安心感に逃避しようとしているのだと思う。一生懸命、過去にあったはずの何かにすがろうとしているのだろう。『昔は良かった』と過去の栄光にすがるおっさんになるまでもう一歩だろうか。悲しいぜ。合唱曲を聞こうと思う動機はそんなことが大きい気がする。

 

 でも実際に聞くと、ただ単に現実逃避できてハッピー!★ってなれるわけもなく、もの凄く辛い気持ちが湧いてくる。もうあの時と同じようには絶対に聞くことができないという生々しい現実が何よりも辛い。

 22歳ともなれば小学校や中学校の同級生が事故で死んだり自殺したり消息不明になったり(周りからしたら俺も多分その一人だけど)したという話が飛び込んでくる。この前も実家に帰った時に親から「あんたの同級生の○○君自殺したってよー。」って話を聞かされた。その人は中学の時に僕をいじめてきた奴だったけど、普通にショックであった。そいつの自殺の報告をした1秒後に全く別の話をする鈍感な母親を憎く思うくらいにはショックだった。『俺をいじめて来たし、因果応報だな。』『メシウマだぜ。』みたいな、まとめサイト的感情が自分にも浮かんでいるかな、と自分の心を観察してみたけどそんな感情は多分無かった。小学校と中学校合わせて9年間もほぼ毎日のように存在を認知していたし、性格もある程度知っている人が自殺したというのは悲しいし怖いことだ。自殺の報告を聞いて以来、夜寝る時にその人のことをよく考える。そいつは小4くらいからずーっと下ネタばっか言っていたし、ギャグセンスもめちゃくちゃ高かった。まだ残ってるツイッターのアカウント見たら、自殺する直前まで相変わらず下ネタとかくだらないことばかり呟いていた。少し前に流行った言葉を使えば、そいつは典型的なマイルドヤンキーで、大学に入ってからも小学校の頃から仲の良い、少しガラの悪いけど情のあつい地元の友達とバカやって遊んでいたようだった。それなのに誰にも相談することなく独りで死んでいった。就活がうまくいってなかったらしいけど、それが直接的な原因かはわからない。ギャグセン高くて面白くて人気なのに、肝心な自分の悩みは全く人に相談できないで独りで抱え込んでしまうことも、就活がうまくいかないことも、あまりにも自分の周りによくある現象すぎる。だから、これは自分の問題でもあると思って、自殺する直前、その人から世界はどう見えていたんだろうとかよく考える。

 そういうことを知ってしまった今現在からすると、合唱曲を聞いても、生きていくことは残酷だなということばかりが頭に浮かぶ。あの頃はクラスの30人だったり、学年の100人だったり“みんなで”歌った合唱曲だったわけだけど、“みんなで”とか不毛にしか思えない。美しい言葉の並ぶ合唱曲が金属音のように冷たく響いて聞こえる。『“みんなで”が不毛なことくらい小学生や中学生の頃から知ってたわ』って声が聞こえてきそうだし、自分もそんなこと知っていたつもりだったけど、今更ダメージを受けているあたり、“みんなで”を割と真面目に受け取ってしまっていたんだなぁと気付いた。

 

 辛いのはそれだけではない。自分の残酷さも辛い。いろいろ社会学の本読んだり、大学の講義を受けたりしていると、『先生や友達のあのふとした言葉で傷ついていたかもしれない人がいたかもな。』とか『小学生の頃のあいつのあの言動とか絶対苦しんでた証拠じゃん。』とか『自分めちゃくちゃあの人のこと追い込んでじゃん。』とか、後から気付くことがたくさんある。それなのに“みんなで”をそれなりに信じて、地に足が着いていて世界が十全で、それなりに心地良く何も知らずに学校生活を送っていた自分が気持ち悪いし、一つのホラーだろって思う。

 

 だから今合唱曲を聞くと、生きていくことの残酷さだったり、過去の自分の鈍感さや、それに伴ってたであろう残酷さとかが浮き彫りになって、辛くて情けなくて泣けてくるのだと思う。斜め上を向きながら、何も考えず大きな口を開けて笑顔で合唱をしている子ども時代の自分の像をぶん殴りたくなる。

 

 今年行った教育実習の最終日に、子どもたちがお別れ会で合唱をしてくれたけど、ここで俺が泣いても不毛さが再生産されるだけだしなぁ、とか思って泣けなかった。他の実習生は感動で泣いてたし、熱血系男から『君は心が無いね』と言われたりもしたけど。

 

 そんなに聞いてて辛いなら合唱曲なんてわざわざ聞かなきゃいいじゃん、と自分でも思うのだけど、相変わらず聞いてしまう。多分、“みんなで”という気分だったり、自分の残酷さに鈍感だったからこそ得られた地に足のついた感覚や、世界の十全さという甘い蜜の味を、今でも身体のどこかで覚えているから、例え辛くとも合唱曲を聞くのが止まらないのだと思う。情けない話です。

 

 でもそんな幻想でしかなかった甘い蜜の味など知らなければどんなに楽だったか、とも思う。そんな中途半端な希望を知ってしまっているせいで、生きていくことや世界の残酷さにまともにダメージを受け、無駄に無気力感が湧いてくるのだと思う。

 もっとも、だからといって無気力が正当化されるわけではないのですが。

 

 歌詞に共感できる人もできない人も、歌の好きな人も嫌いな人も、クラスに居場所がある人も無い人も、強制的に“みんなで”歌わされた合唱曲は、良い意味でも悪い意味でも、いろんな人の人生が一点に凝縮された、学校が生んだ奇妙な思い出だ。合唱曲はいろいろなものを想起させる。そこには否応なく、他者との関係と切り離すことができない自己の在り方が含まれてしまっている。

 

 そんな合唱曲を聞くと、今の僕には、少しの心地良さと残酷さと辛さと無気力が襲い掛かってくる。それは甘ったるい希望が身体に染み付いていることで、世界や他者との向き合い方がわからなくなっている、今の僕の在り方をとても象徴しているのであった。