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自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

ブログを通して無意味な人生に少しだけ意味を感じた話

 ブログ始めて丁度一年経つし(と言っても30記事くらいしか書いてませんが)、実家に帰省していて何だかやることも無く暇なので、過去の自分のブログの記事を読んでいました。

 普通に赤面ものですよね。『なんでこんなくだらない個人的な悩みを堂々とネットで公開しているんだコイツは…』『きもい自意識曝け出しすぎだろ…』と後悔すること甚だしいです。

 とは言うものの、その時の自分にとってはそれがとってもとっても切実な悩みであり、悩みをブログで公開することに何かしらの救いを求めていたわけであります。そしてそのことは確かに自分にとって一定の意味があったと思うので、どんな意味があったのかを振り返りながら書いていこうと思います。(どうせこの記事も後から読んで後悔するのでしょうが…。)そしてそれは無意味な人生と意味のある人生の違いを考えるうえで一つのヒントになると思います。

  まず自分は大学に入ってから、ずっと自分の人生の無意味さばかりを痛感していました。特にやりたいこともなく漫然とただ生きているだけの無気力大学生です。しかし、周囲の人間は何やら動機でもあるかのような顔をしながら生きていました。僕のように根の無い人間にとって、動機でもあるかのように生きている人間というのは、脅威そのものでありました。そんな人たちの姿を見るだけで、自分が責められているような気分になります。次第に人と接するのがめんどくさくなり、時には人と接するのが恐ろしいことのように思えるようになりました。こんな状態を精神科医のR.D.レインが『ひき裂かれた自己―分裂病と分裂病質の実存的研究』の中でうまく表現してくれています。

存在論的に不安定な人間は、自己を充足させるよりも保持することに精いっぱいなのである。日常的な生活環境さえが、彼の安定度の低い閾値をおびやかすのである。(p52)

 

外界の事象は、それが他の者に影響するのとは同じ仕方では、もはや彼に影響しない。それは彼に、より少なく影響するのではなく、反対にしばしば彼に、より大きく影響する。彼が<無関心>になったり<引きこもったり>するというのは、事実でないことが多い。けれども彼の体験世界が、他の人々ともはや共有しえないものになっているということはできよう。(p53)

 

  

  大学2年になってから、大学の講義以外はほとんど家にひきこもって本を読んだり、まとめサイトを読んだりしていました。読書会とかも行ってみたけど、根のない僕が行ったところで無駄な足掻きでした。1年もそんな暮らしをしていると、いよいよ人生の無意味感も深刻さを増してきて、頭がおかしくなりそうになりました。(なっていたかもしれませんが。いや、今もおかしいかもですね…。)生きていても思い出も何も残らず、記憶も世界も灰色になりました。あぁ、これはどうしようもない…、本当にどうしようもない…、と思っていた時にブログを始めようと思いました。どうしてブログだったのか。

 僕はほとんど現実での対面的なコミュニケーションを諦めていました。『自分の考えを勇気を出して人に直接伝えるのは大事だ!』などという有難い説教やらアドバイスは何度も貰ったことがあるけど、普通に無理でしょって思ってました。『そもそも自分の意見なんて何かわからんぞ?』『「自分の考えを直接伝えるの大事だ!」って言われて何か頑張って主張しちゃう時点で自分の考えじゃなくなっちゃってるんじゃね?』と屁理屈ばかりこねていました。もしかしたらこの屁理屈が自分の意見なのかもしれないけど、こんなことを聞いてくれる人がどこにいるだろうか。『僕のこの面倒くさい屁理屈を聞いてくれる人がいるはずだ』という期待が抱けるほどの信頼を、誰かに感じることはもはやできなくなっていました。自分の考えを言おうとしたとしても手足や口元が震えました。身体レベルで拒絶反応が出るほど、それは僕にとって困難なものでした。

 だからと言って、家で独りで人生の無意味感をヒシヒシと感じながら生きていくのも辛いわけです。そこで、この需要の無い屁理屈を自由にこねれる場を作ろうと思い、ブログを書くことにしました。ブログは自分が何を書こうと、基本的に読みたい人だけが読みにくるので、コミュニケーションが苦手な自分からしたらちょうど距離感が良かったのです。

 

 そんなわけで、自分が今まで誰にも打ち明けられなかった悩みや愚痴をブログに書くようになりました。時には実生活で起こった嫌なことから記事を書いたり、時にはTwitterのTLを見ていて納得がいかないことや不愉快だったことから記事を書いたりしました。自意識過剰のため、ブログを<公開する>ボタンを押す時はとても緊張しました。<公開する>ボタンが<後悔する>ボタンに見えました(ダジャレです、どうぞ笑ってやってくださいよ)。そしたら何人かの方がコメント欄やTwitterで反応をしてくれて、とても喜んだ記憶があります。自分のこんな屁理屈にも反応してくれる人がいるんだな…、と初めて知ることができました。

 そんな感じでほんのほんの少しだけ自分の生に意味を感じながら、ブログを続けていきました。そうしていると、僕のブログを読んで『会って話しましょう!』と、コメント欄やメールで連絡をくれた人が4人ほど現れてくれました。『会っても別に話すことなんかないんじゃないか…』『あっち側の時間の無駄になるんじゃないか…』とかいろいろネガティブなことを考えたけど、こんな屁理屈ブログを読んでそう言ってくれた恩もあるし、一体どんな人間がそんなことを言ってきているんだ…、と気になったので勇気を出して会って話をしました。勇気を出したというよりかは、『まぁあっち側の時間の無駄になったとしても、無駄にした原因はあっちの目に映った俺であって、それは本当の俺じゃないしっ!』と、必殺離人の術を使ったと言ったほうが正しいかもしれません。

 そんなこんなでブログを通して人と実際に会ってみたのですが、この経験が僕にとって一番大きな経験だったと思います。屁理屈をこねたブログを通しての対面のコミュニケーションと、それ以前の他人の脅威に晒されていた対面のコミュニケーションは完全に異質な体験でした。そしてこの違いが、無意味な人生と意味のある人生の違いを考える上で一つのヒントになると思います。

 この違いを、R.D.レインの『ひき裂かれた自己―分裂病と分裂病質の実存的研究』と、ドイツの哲学者のアクセル・ホネットの『物象化 』をもとに考えていこうと思います。

 

 自分の考えも何も言えず、動機でもあるかのように生きている他人の脅威にただただ怯えていた時の僕のような人間が感じていた恐怖を、レインは次のように表現しています。

 ひとがひとりの人間として他の人間にかかわりをもつためには、自己の自律的なアイデンティティについて堅固な感覚をもつことが要求される。さもなければ、いかなる関係といえども、アイデンティティの喪失のおそれをもたらす。その一つの形態が「呑みこみ」と呼ばれる。ここでは人間は、誰かもしくは何かとのかかわりを、あるいは自分自身とのかかわりそのものさえも、おそれるにいたる。というのは、いかなる関係においても、自律性の堅固さについての不全感が、自律性とアイデンティティとを失いはしまいかというおそれに、彼を直面させるからである。…(中略)…その人間は、たゆまぬ熱烈な絶望的活動によって、溺れることから自分を救うことに汲々としている人間として、自己を体験する。
 「呑みこみ」にあっては、理解される(したがって把握される、了解される)こと、愛されること、そして単に見られることにすら、危険が感じられる。 憎まれることも他の理由から恐れられるかもしれないが、憎まれること自体は、愛によって呑みこまれ(そう感じられるのであるが)破壊されるのにくらべれば、障害の程度はずっと小さいことが多い。
 呑みこまれるおそろしさの圧迫のもとにあって、アイデンティティを維持するためにつかわれる主な策略は孤立である。それゆえ、個人的の自立性にもとづく「自立」と「かかわり」という両極のかわりに、ここでは他者に吸収されることによる完全な存在の喪失(呑みこみ)と完全な孤独(孤立)という対立が生じる。(p56)

  呑みこまれる危機があるため、孤立を選んでしまうのです。僕が人と接することをめんどくさがったり、恐れたりして家に引きこもることを選んだ理由もこれに当たると思います。

 しかし、僕は読書会などに行ったりと、対人コミュニケーションの問題をどうにかしようと足掻くことも少しだけしました。無駄な足掻きに終わってしまいましたが…。それが無駄に終わってしまったのは、レインが以下に記述するような自己防衛的なコミュニケーションしかできなかったからだと思います。

誰か他人を<石化>し石に変えようと試みる魔術的行為。さらに言えば、他人の自立性を否定し、その感情を無視し、彼を一個の物とみなし、その生命を抹殺する行為。この意味において彼を離人化し事物化するといってよい。つまり、他人を独りの人間として、自由な行為者としてでなく、ものとして取り扱うのである。離人化は、他者があまりにも厄介な邪魔な存在となったとき、その人物を処理する手段として一般に用いられる方法である。人はもはや相手の感情に答えようとせず、あたかも彼が感情をもたないかのようにみなし取り扱おうと身構える。ここで問題になっている人々は、いずれも自分自身を多少とも離人化した存在と感じやすく、かつ他者を離人化する傾向がある。彼らはつねに、他者によって離人化されることをおそれている。(p59) 
 仮病を使ったり、死を装うことはその生命をまもる手段になる。自ら石になることは、他の誰かによって石に変えられないようにする手段となる。「汝、堅固なれ」とニーチェは説く。たぶんニーチェ自身が意図しなかった意味においてであろうが、石のように固くなること、したがってさらに死んだようになることは、他者によって死物に変えられる危険に対して機先を制することになる(p66)

 

 結局、対面のコミュニケーションをしたところで、自分を石化するか他人を石化するかという自己防衛ばかりしてしまっていたので無駄な足掻きに終わったのだと思います。

 

 それに対して、ブログを通して人と会って対面のコミュニケーションをしたことは、この自己防衛的なコミュニケーションとはどう違うのか。そのことを考えるために、アクセル・ホネットが『物象化』の中で論じていることがとても参考になります。

 

 ホネットは、この本の中で、自己の物象化・他者の物象化・自然の物象化の3つの物象化を論じています。物象化とは簡単に言ってしまえば、人や自然をただのモノのようにしか思えなくなってしまう状態のことです。

 ホネットは認知心理学などの知見を用いながら、そもそも人間は赤ちゃんの頃に身近な人物との感情的な同一化がなければ、言葉を覚えることも、他者と相互行為を行うこともできないと述べています。そして成人になってからも、そうとは意識していないとしても、人は情緒的な紐帯感(肯定的なものであれ否定的なものであれ)を感じながら、コミュニケーションをしているといいます。そうでなければ言葉を通して感情を共有するなどというのは不可能なことなのです。それにも関わらず、情緒的な紐帯感があたかも存在していないかのように、忘却してしまうことがあるのです。そしてその時に、物象化の状態が起こります。

 

 まさにレインが『誰か他人を<石化>し石に変えようと試みる魔術的行為。さらに言えば、他人の自立性を否定し、その感情を無視し、彼を一個の物とみなし、その生命を抹殺する行為。』と言っていたのが、ホネットのいう「他者の物象化」の一つであり、『仮病を使ったり、死を装うことはその生命をまもる手段になる。自ら石になることは、他の誰かによって石に変えられないようにする手段となる。』と言っていたのが、「自己の物象化」の一つのあり方だと言えます。周りの人間に対する不信とそれに伴う恐怖から自分を守るために、情緒的な紐帯というものを必死に忘却しようとしていたのだと言えます。そしてこのような態度は自然の物象化に繋がっていきます。人間は、植物や動物などの自然に対して他者が付与している主観的な意味づけを尊重することによって、自然を豊かな意味のあるものだと感じるために、自己や他者を物象化してしまっている人は、自然をも物象化するとホネットは述べています。僕が人生を無意味だと感じていた時に、様々な記憶や世界が灰色に思えたのも、自己や他者を物象化したことによる自然の物象化と関係していたのだと思います。

 

  ホネットの理論に従えば、コミュニケーションをするために必須な情緒的な紐帯感をいかに忘却しないでいることができるのかが、意味を感じながら生きていくことにとって重要であると言えると思います。

 僕が屁理屈をこねまくったブログを通して実際に会った人とコミュニケーションすることで感じたのは、この情緒的な紐帯感と言えるのではないか、と考えています。

 自分の考えなど何も言えず、自分を石化するか他人を石化するかという攻防を勝手に繰り広げている場合とは違い、ブログを通して会った人は、すでに僕のどうしようもない内面をある程度知った上で会ってくれました。そうなると、相手に対して自分が何を言ってもちゃんと聞いて受け止めてくれるだろうという期待が少なからず持てたし、そんな相手が一体どんな人間か知りたいとある程度素直に思えるようになるわけです。会った後も、『あー、あの人ならこれをどう捉えるだろうか。』と考えながら過ごすことがとても多くなりました。以前よりも、誰かの視点を通した意味を感じながら生きられるようになったと思います。それはレインが華麗な文体で描き出したような、自己防衛に明け暮れ、空虚感と全能感が同居するようになったおぞましい生き方とは対照的なものではないでしょうか。

この閉じこもった自己は孤立するので、外的体験により豊かにされることがなくそのため内的世界全体はしだいに貧困化し、その人間は自分をまさに真空だと感じるまでにいたる。どんなことでもなしうるという感じ、すべてを専有しているという気持ちが、不能感、空虚感と隣り合って存在する。(p97)

  

 こうして文章にすると、物凄く綺麗事になりますね。実際はブログを通して会ったからといって何でも気軽に話せたわけではなく、自己防衛的なコミュニケーションは相変わらずするし、無表情は止まらないし、今でも人生の無意味感に度々襲われるし、自分だけの完結した世界に逃げたくなります。人間はそんな簡単に変わるものじゃないし、人生は基本的に辛いままだ。

 それでも人間関係における情緒的な紐帯感や、他者が世界に対して付与している意味を想像しながらこの世界を生きていくということを、ほんの少しだけでも感じとれたことが、ブログを通して人と会って話したことで得られたものなのでありました。

 

 

ひき裂かれた自己―分裂病と分裂病質の実存的研究

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物象化 (叢書・ウニベルシタス)

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