自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

Coccoはなぜ唄っていたのか、拒食症との関係から考えてみる。

 本を読みながら生活をしていると面白いことが起きる。僕は普段、読む本を選ぶとき明確な理由があって選ぶことは少ない。ただ単に題名で惹かれたり、何かの本の中で引用されていたのが気になったり、自分の興味ある人が好きだと言っていたからだったり、そのくらい曖昧な理由で次に読む本を選んでいる。

 それにも関わらず、「自分が今まで読んできた本たちには必然的な繋がりがあったのだ!」、とか、「自分がこういう本を読むということは、自分の過去の人生の経験から既に決まっていたのだ!」、とか、少し神秘的なことを思ってしまいたくなるような感覚が、突然どこからともなく降ってくることがある。

  

 精神科医で精神病理学を専門としている加藤敏さんの人の絆の病理と再生―臨床哲学の展開はまさしく僕にそんな感覚を味あわせてくれた本である。特に第四章の『シモーヌ・ウェイユにおける摂食障碍と「無の思想」』を読んだ時にそんな感覚になった。この章では、「今日の摂食障碍者の、場合によっては当人自身自覚していない心性に光をあててくれるように思える」という主旨のもと、哲学者のシモーヌ・ウェイユの思想とその創造性が、ヴェイユの患った拒食症との関係において論じられている。

 

 ここで論じられているヴェイユの思想の創造性に僕は強く惹かれると同時に、「あれ、ちょっと待てよ…。」と自分の過去を回想させられた。

 高校時代に付き合っていた彼女は、僕と別れた後に拒食症を患ったし、大学に入ってからも仲良くなった(?)人が拒食症であったことを後から知ったり、時々ご飯が食べられない状態になったりしている。自分の好きな歌手のCoccoも拒食症を過去に患っていた。そもそも身近すぎて気にしてなかったけど、自分の母親もご飯を全然食べない人だったぞ…、云々。

 これは果たして偶然なことなのだろうか。加藤敏さんの論じていたシモーヌ・ヴェイユの思想とその創造性に僕が強く惹かれたことから、こう考えることができる。僕の少ない友人や好きな人の中に拒食症の人だったり、ご飯が食べられない人が多いのは、そういう人たちに共通する思考や創造性を僕がどこかで感じ取っており、そこに惹かれていたからだったのではないだろうか。もちろんそうした友人や好きな人たちが全く同じ思考をしているわけではない。しかし、そこにほんの少しだけ必然的な繋がりを感じ取ることができた気になったのである。そしてこの経験は、生きている中で自分が自然と惹かれてしまうもの、自分に魅力的に映るものは何だったのか、という問題に少しだけ輪郭を与えてくれたのである。

 

 僕は音楽というジャンル自体あまり興味がない人間なのだけど、なぜかCoccoの歌はすぐに好きになった。自分でも全くその理由がわからず戸惑っていた。そしてそれは、なぜCoccoの表現方法は歌なのだろうか、という疑問にも繋がっていった。それにほんの少しだけ輪郭が与えられたので、加藤敏さんのシモーヌ・ヴェイユの分析を再構成しながら、そのことについて考えていこうと思う。

 

  フランスの哲学者シモーヌ・ヴェイユ(1909-1943)の特徴の一つは、伝記が多く書かれているということです。ヴェイユは何かと逸話が多く、そしてその逸話に魅了された人たちがどんどん伝記を書いていくのです。ヴェイユがどんな人間なのかを知るためにも、逸話のいくつかを紹介します。

 ヴェイユが生きた時代は、工場の中で非人間的な扱いをされて働いている労働者の解放というのが政治におけるメインテーマでした。レーニンとかトロツキーとか偉そうに労働者の解放を説いているけど、自分で工場で働いたこともない奴に何がわかるのか、と考えのもとヴェイユは教職の休暇申請を出し、実際に工場に入って働きます。その抑圧と隷属の世界における体験について、工場日記 としてまとめられています。ヴェイユの性格にはこういった使命感だったり、貧しい者への共感や同一化というものが根本にあるわけです。それは止まることを知らず、寒さのきびしい冬の時期に、失業者が満足な住環境がなく寒い思いをしていることを考え、暖房を使わずに寝ることにしたり、貧しい失業者に思いをいたし、人がベッドを用意しても床で敢えて寝たという逸話も残っています。そして第二次世界大戦の時期には戦時下の窮迫した同胞の身の上を想い、自ら進んで食事を断ち、挙句の果てには倒れて入院してしまいました。そして回復の可能性は十分あったにも関わらず、「自分の食べ物はフランス人捕虜に送ってもらいたい」と、医者の勧める栄養補給に対して断固拒否し、三十四歳という若さで亡くなってしまうのです。同時代を生き、ヴェイユとの交流もあったフランスの哲学者ボーヴォワールは自伝の中で、そんなヴェイユの性格を「全世界をよこぎって鼓動しうる心」と表現しています。*1

 

 このように、自らを死に至らしめてしまうほどの「全世界をよこぎって鼓動しうる心」の持ち主であるヴェイユの思想とはどういったものなのでしょうか。拒食症とその思想の関係について加藤敏さんが分析したことを以下で簡単に再構成してみます。

 

 ヴェイユの主著に、重力と恩寵があります。この本の中では、人間の世俗的かつ動物的な欲望(権力欲、支配欲、食欲など)を、自然にしておけば人がおしながされていく「重力」にたとえていて、ヴェイユはこれを強く忌避しており、それを乗り越えるものとして、「恩寵」の思想を主張しています。

 この本の中で、ヴェイユは食について、中々理解しがたいこんなことを書いています。

 

「幼児期から始まり、死にいたるまで続く人間の大きい苦悩は、見ること(regarder)と食べること(manger)がふたつの違った行為であることである。永遠の至福は、見ることが食べることになる状態である。」

 

「悪・犯罪は美しいものを食べること、ただ見つめなくてはならないものを食べること」

 

 加藤敏さんはこれを、「食べ物を口に入れて歯で噛まないことには、人は食べ物のリアリティを感じとることはできない」ことと「食べることの破壊性に耐えられない」ことのジレンマが表現されていると分析しています。ヴェイユにとり、食べ物を噛んで破壊し体内化することは、動物的な欲望で「重力」の側に属すのです。食べ物を破壊せずに済むよう、ヴェイユが願う、見ることがそのまま食べることになる状態が「恩寵」の側に属します。人間の能力では絶対的に無理な能力を要請するこの思想は理解しがたいですが、重要なのは、何かを破壊・体内化して自らの欲を満たす(食べる)のではなく、隔たりに基づいた上で自らの欲を満たす(見る)ことを、ヴェイユが希求しているということです。そして、食べ物を体内化する原因は自らの肉体であり、この自らの肉体に対する忌避の念がヴェイユにはあるのです。

 

 この食に関する思想と似たようなことが、ヴェイユの愛の思想にも見られます。

 

 「愛には実体が必要である。肉体という仮象をとおして、想像上の存在を愛していて、ある日それに気づいたとしたら、このこと以上に無残なことがあるだろうか。死よりもはるかに無残である。」

 

 ヴェイユは肉体というものを「仮象」と呼び、そして自分がその「仮象」を通して愛していることに気づくことは、死よりもはるかに残酷だと述べています。ここにも肉体に対するある種の蔑視が見られるのです。ヴェイユは理想の愛について以下のように述べています。

 

 「ひとりの女性のたましいを愛するとは、自分の快楽のためにとかといったふうな関連において、その女性のことを考えないことである」

 

「純粋に愛することは、隔たりへの同意である。自分と愛するものとの間にある隔たりを何より尊重することである」

 

 愛の思想においても、食と同様、隔たりへの同意が希求され、動物的な快楽に基づいている肉体というのは忌避されるものとなっています。動物的な快楽に基づく愛は「重力」に属し、隔たりの同意のもとでの愛は「恩寵」に属すのでしょう。

 

 ヴェイユの思想を見ていると、こんな疑問が浮かんできます。たとえ肉体(動物的な欲望)に基づいた愛であっても、隔たりの同意のもとでの愛は成り立ちそうなのに、どうしてヴェイユはここまで肉体を低俗で忌避すべきものとして扱うのでしょうか。また、肉体を忌避し、隔たりの同意への希求が「食」と「愛」の領域で同列になされているが、「食」と「愛」に一体どんな関連性があるのでしょうか。

 

 この2つの問題を紐解いてくれるのは、精神分析家のラカンの理論です。摂食障碍における「食」と「愛」の不可分な関係について、天使の食べものを求めて―拒食症へのラカン的アプローチの最後の解説にわかりやすい説明があります。

 原初的な母子関係において、子どもは母親の乳房から授乳をします。子どもは泣いたり喚いたりすることで母親に授乳を要請しますが、その時に要請しているものは生理的欲求を満たすことと愛情のコミュニケーションの双方であります。子どもは授乳において生理的欲求を満たすと同時に、母親の存在を傍で感じ安心感も得ているのです。しかし、そこで母親が愛情のコミュニケーションに応えず、物質的な要求だけに応えてしまうと、子どもは母親から愛を感じることができず、自分の存在が承認されていないことに大きな不満・不安を感じてしまうのです。そこで子どもは何とか母親に対して愛の要求を行おうとするのですが、子どもは無力なため方法が限られています。その限られた唯一の愛の要求の方法こそが、ミルクを飲むことを拒絶するか吐いてしまうことなのです。ここに、「食」と「愛」を同列において、肉体というものを忌避する思想の原型があるのです。自分は生理的欲求だけでは満足をしていない、ということを示すことでしか、母親に対して愛情を要求できない子どもにおいて、「食」と「愛」は不可分なものなのです。実際にシモーヌ・ヴェイユは、授乳期に母親が虫唾炎の発作を起こしたことにより授乳障碍に陥っていたようです。

 根本にこのような経験があるからこそ、ヴェイユは肉体を廃してまで、「隔たりへの同意」を食においても愛においても希求していたのです。「自分の食べ物はフランス人捕虜に送ってもらいたい」と、自らを死に至らしめるほどのヴェイユの強い愛の希求を、加藤敏さんは「肉の消去、つまり死を通した透明な精神の境地への到達」と評しています。まさに、この「透明な精神の境地」を感じ取らせてくれることこそ、ヴェイユの思想が人を魅了してやまないことの理由なのでしょう。

 

 僕には、このようなヴェイユの思想や創造性が、Coccoにおいても見られると思います。Coccoもまた、ヴェイユのような逸話に溢れた存在です。

 例えば、1997年にメジャーデビューを果たした4年後に突如活動休止をした時に感じていた苦悩の一つである「ファンとの距離感」について、bridge (ブリッジ) 2006年 08月号 [雑誌]の中で以下のようにインタビューに応えています。

 

 「ファンレターが来たら全部読むから、そしたらそこに書いてあるわけ。<何月何日何時に、渋谷のどこどこで待ってます。大ファンです。もし会えなかったら死にます>って。死なれたら困るって思うでしょ。だからその日に行くわけ」

「だって止めなきゃいけないじゃん。…(中略)…だから行ったの。で、待つわけ。でも現れりゃしないわけよ。朝まで待つわけ、死なれたら困るから。自分のせいで誰かが死なれたら困るから。自分のせいで誰かが死ぬっつうのはヤだし。でも来ないわけ。ああ、来なかったな、なんだったのかなって思って。そしたらまた手紙がどんどん来るわけ。読まなきゃいいのに自分が外に勝手に発信してる分、来るものは読まなきゃいけないって思ったからまた読むでしょ。あっちゃんは勝手にCDを誰か知らない人に向かって売ってしまってるわけでしょ。自分の目で見える人たちと作ったものを、見えない人に売るっていう無責任なことをしてて、来たものに対してあっちゃんは一対一でいようといつも思ってたから。それが無責任な行動に対して自分がやらなきゃいけないことだと思ってたし。」

 

 このような苦悩を抱える者への姿勢は、「隷属状態」にある貧しい者への止まることのない共感、同一化を示していたヴェイユの姿勢と通じるものが感じられます。

 また、そんな苦悩を抱える者への共感・同一化の姿がよく描かれているドキュメンタリーがあります。是枝裕和監督の大丈夫であるように-Cocco 終らない旅-です。このドキュメンタリーには、ある1通の手紙からはじまったCocco旅の記録が映されています。その手紙は青森県六ヶ所村に住むある少女からのもので、核再生処理施設という危険や、その施設に対する市民の是非の争いとともに生きているが、それでも自分は故郷を愛してるという思いが書かれていたのです。Coccoは米軍基地問題を抱える沖縄に住んでいる自分と同じ悩みを抱えた人がいることを知り、青森へ旅に向かうのです。道中、阪神淡路大震災の犠牲者が慰霊されている神戸の慰霊と復興のモニュメントや、原爆ドーム、太平洋戦争で犠牲者となった人たちが慰霊されているひめゆりの塔や、平和の塔に訪れ、祈り唄いながら旅をする姿が描かれています。

 まさにCoccoは、ボーヴォワールヴェイユの性格を表現した、「全世界をよこぎって鼓動しうる心」の持ち主であるのではないでしょうか。

 

 また、大丈夫であるように-Cocco 終らない旅-の中で旅をしているCoccoは、黒糖だけしか食べ物を摂取していませんでした。エンディングにおいて、この旅の3ヶ月後にCoccoが拒食症で入院したことが視聴者に知らされます。

 この時の拒食について、papyrus (パピルス) 2009年 10月号 [雑誌]Coccoはこのようにインタビューに応えています。

 

 「食べなければ罪悪感を感じない。何でかっていうと、命をとらないし、大地の恩恵を受けなくてもいいから。私は大地にも、豚にもごめんなさいって言わなくてもいい。やっぱ命をいただくっていうことは責任があることだから、その小さい責任が毎日ちょっとずつなわけじゃん。」

 

 ヴェイユが述べていたような「悪・犯罪は美しいものを食べること、ただ見つめなくてはならないものを食べること」という「食べることと見ることが分離」してしまっていることに起因する不幸を、Coccoも感じていたのではないでしょうか。

 

 「食」においてヴェイユの思想との親近性が見られるように、「愛」においても、Coccoに「隔たりへの同意」への強い希求が見られます。

 例えば、故郷の沖縄の海を綺麗にするために、沖縄の子どもたちと演奏会をすることで、沖縄の人たちに「もしも歌が届いたら、ゴミを拾ってね」というメッセージを伝えようとしたCoccoの姿を追ったHeaven's hell というドキュメンタリーの中での一コマが、その象徴的なエピソードとして挙げられます。その中に、演奏会を共にする子どもたちを集め、涙ながらにこう語りかけるシーンがあります。

 

 あっちゃんさ、みんなの期待に応えられるくらい脳みそ大きくなくてからさ、ここにいる人数だけでもみんなの名前覚えきれないわけよ。忘れたくないけどさ、ごめんね、覚えられないわけみんなのこと。だから、もしさ、道歩いてて見たらさ、教えて欲しいわけ、あっちゃんによ。「あっちゃん自分だよ。」って教えて欲しいわけ。そしたら多分思い出せるからさ。もしさ、街で会ったらさ、あっちゃんって言ってからさ、あっちゃんに思い出させてほしいわけ。“みんな”っていう言い方しかできないでさ、本当は一から千まで全部名前呼ぶべきなのに、“みんな”って呼び方して、でもそのみんなに支えられてるってのはわかってるんだけど、やっぱりできないところいっぱいあるから。しかもみんな成長期で顔とか変わるんだろ、だからさ教えて欲しいわけさ。だから、みんな、あっちゃんもし道で会ってわからないでも、お願いだからショック受けないでね。あっちゃんいつも絶対さ、嘘つかないでできるように頑張るからさ、頑張るから、もしそれがさ、そのやり方がいと思ってくれるんなら、またみんなに手伝って欲しいわけ。だから、いつもみんなに恥ずかしくないようにあっちゃん頑張るからさ。

 

 子どもたちを一人一人名前で呼びたいけど、自分の記憶力に限界があるというジレンマに苦悩する姿が見られます。子どもたちのことを「みんな」と呼んでしまうことは、一人一人の隔たりを消去してしまうような行為です。そんな暴力性に敏感で、罪深さを感じてしまうCoccoは、ヴェイユの思想に見られた「隔たりの同意のもとでの愛」の希求が強いと言えるのではないでしょうか。この「みんな」と呼んでしまうことの暴力性に敏感な姿は、CoccoのLIVEでも至る所に見られます。

  

 まさにCoccoには、ヴェイユのように、肉体を廃した隔たりの同意のもとでの愛への希求が見られるのです。そして、そうした愛を実現させるための唯一の表現方法として、Coccoには唄というものがあったのではないでしょうか。Coccoの唄は、愛を要求する叫びであると同時に、一人一人の隔たりの同意のもとでの愛に包摂された空間を創造していくものであると僕は感じます。Coccoの唄を聴いている人も、心の中で愛を要求する叫びをすると同時に、どこかで自分が包摂されている感覚を抱いているのではないでしょうか。加藤敏さんがヴェイユを「透明な精神の境地」と評しましたが、Coccoが唄うことで創出している空間は、まさに「透明な精神の境地」であります。これが僕が感じたCoccoの唄の魅力の一つです。

 

  こんな大袈裟風なことを書くと、なんだか自分とは遠い離れた世界のことのように思いますが、ヴェイユCoccoに見られるような、「食」と「愛」における、肉体を廃した隔たりの同意のもとでの愛の希求というのは、何も数少ない人だけのものではないと思います。友達関係や恋愛関係がうまくいかない時に、食欲が無くなるなんていうのはよくある話です。そんな時、僕たちは誰も傷つかない隔たりの同意のもとでの愛を希求するがために、一時的に食べることを拒否しているではありませんか。もっと言えば、失恋した時に「結局テメーは身体目当てだったんだんじゃねぇか!」なんて叫びが心の中に湧き上がってくる人はたくさん存在するじゃないですか。動物的快楽、肉体的なコミュニケーションを廃した愛を希求するそのような叫びは、もうヴェイユの思想そのものですよ。きっと僕たちは自分が思ってるより頻繁にヴェイユのような思想を発揮しているのです。よくよく考えればそれは当然の話です。人間なら基本的に誰でも「食」と「愛」の未分化な状態から生を始めているわけですから。誰にでも純粋な愛を希求したい時がやってくるからこそ、ヴェイユの思想やCoccoの唄のような「透明な精神の境地」に励まされ、勇気づけられる人がたくさんいるのではないでしょうか。

 

 

 突然とても個人的で下品な話をしますが、僕は中学生の頃から、男体は射精時が性欲のピークであるという特徴を逆手にとって、「おい、本当に相手のことが好きかどうか確かめる方法教えてやろうか。オナニーした後にも相手のことを自分が好きでいられているのかどうか、確かめればいいんだよぉ!(ドヤァ)」みたいなことを周りの人に言っていました。自分的にはかなり良い考えだと思っていたのですが、なかなか共感は得られませんでした。でもこれも動物的な快楽・肉体を廃した隔たりの同意のもとでの愛への希求というものに、割と近い考え方だったんじゃないかなとか思います。

 そんな昔のことを想い出していると、高校で別れた相手が拒食症になったことにも、大学で友達になった人で拒食気味の人が多いことにも、Coccoのファンになったことにも、加藤敏さんの本に出会ったことにも、自分の過去の性格や経験からある種の必然性があったんだなぁ、と思いたくなります。冒頭で述べた感覚というのは、そのようなものです。

 

 

 このブログ記事は不謹慎なものだったのかもしれません。摂食障碍を患っている人は苦しんでいるにも関わらず、無責任にその創造性ばかりに焦点を当てるのは、その苦悩を覆い隠すことに繋がるかもしれないからです。

 しかし、加藤敏さんがヴェイユの思想の分析を「今日の摂食障碍者の、場合によっては当人自身自覚していない心性に光をあててくれるように思える」という主旨のもと行っていたように、この記事も、摂食障碍者の人や、その気質のある人、そんな人たちの思考や創造性に惹かれている人たちの、当人自身が自覚していない心性を少しでも照らすことができたらな、と思います。

 

 

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*1:冨原真弓『ヴェーユ』(p87)