自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

他者との対話としての読書

 「読書が趣味です」なんて言うと、立派な人間として扱われる風潮は未だに存在している。本当にそうだろうか。少し周りを見渡せば、自らのコンプレックスを隠すためなのか、ルサンチマンの発散のためなのか、楽しくもなさそうに読書をしている人間をチラホラ見かける。まぁ読書なんて所詮そんなものなのかもしれない。こんなことを言ってる自分も、しばらく何も楽しくない読書をしていた。いや、ひょっとして今でもそうなんじゃないか…、という疑念さえある。「読書をしている人間は立派である」という風潮に見事に呑まれてるのは、僕自身なのである。

 

 自己評価の低い自分にとって、立派な人間は凄ぶる輝いて見えた。いや、そもそも何が立派であるかもわかっていないので、あらゆる人間が立派で輝いているように思えた。人を立派な存在として見る能力だけが自分の中に育っていた。何とも幼稚な考え方である。

 この低い自己評価をどうにかして、自分も立派な人間になりたい。しかし、特に秀でた能力もない。そんな時に「読書をしてる人間は立派である!」「読書は人の心を豊かにする!」「読書は人格陶冶である!」などという言葉が、圧倒的な存在感を持って自分に迫ってくる。特に優れた能力はないが、公教育のおかげで本を読むくらいだったら自分にもできる。一浪をしても第一志望の大学に受からなかった切なさも相まって、大学1、2年の頃はひたすらに小説やら評論やら漫画やらを読んでいた。

 

 小説で言えば、三島由紀夫を読み、夏目漱石を読み、太宰治を読み、ドフトエフスキーを読んだ。漫画で言えば、手塚治虫を読み、浦澤直樹を読み、萩尾望都を読み、大島弓子を読んだ。一体それで自分に何が残ったかと問えば、著者と作品の組み合わせを暗記できたことくらいである。読書は人の心を豊かにするという話はどこにいってしまったのだろうか。名作を読んだところで人生は相変わらず意味が感じられず空虚であり、心は荒廃したままである。

 今思えば、本の選び方が悪かったのだ。動機がしょうもなかったのだ。そこには低い自己評価が絶えずつきまとっていた。自己評価の低さのために、自分で自分の読みたい本を選ぶことすらできなかったのだ。そんな時に僕のような人間は何にすがるかと言えば、人々の評判である。評判が良ければ間違いない。そんな考え方をしていた。

 さすが情報化社会は便利であり、自分のニーズにあった記事を少し検索すれば見つけることができる。僕のような読書で人格陶冶をしたいマンは、「大学生 教養 読むべき」などという言葉でググるのである。そうするとまとめ記事が大量に見つかる。

 

 しかも最近ではアニメや漫画だって教養としてまとめられちゃったりしているのである。

 

 こういった記事やら本をいくつか眺め、世間で評判の良いものを探して、自分が読む本や漫画を決めるのである。まさに周りの視線ばかり気にしているキョロ充のような振る舞いである。そんなしょうもない動機から読んだとしても、人の心を豊かにしてくれる力があるからこそ教養たるものは教養と呼ばれているのかもしれない。きっとそういった一面も確かにあるのだろう。しかし僕はそんな教養の力をも凌駕してしまうほどの読書版キョロ充だったのだ。

 キョロ充の辛いところは、リア充が当たり前にしている振る舞いを意識的に努力しなければできないところである。必要な努力が大きい分、リア充の形式を真似ることでいっぱいいっぱいになってしまい、実質はいつまでも得られない。その形式への過剰な努力がキモさとなって表出してしまうのである。

 まさに僕は読書版キョロ充であるので、形式を真似ることに力を捧げていた。本を読んでいる最中は、太宰治を読んでいるのではなく、「太宰治を読んでいる自分」を読み、手塚治虫を読んでいるのではなく、「手塚治虫を読んでいる自分」を読んでいるのである。読み終われば「太宰治を読んだ自分」「手塚治虫を読んだ自分」が完成し、少しのあいだ悦に浸るのである。数日もすれば何も残っていない自分に気付き、虚無感を埋め合わせるために同じことを繰り返す。

 そこには壮絶な勘違いが存在している。「読むべき小説」「教養としての漫画」「読書は人の心を豊かにする」そんな言葉たちに惑わされることで、その本の中に何かしら大きな価値が宿っており、読むだけでその大きな価値を自分の中に取り込むことができるはずだ、という勘違いである。

 その勘違いのおかげで僕は、三島由紀夫を読み、夏目漱石を読み、太宰治を読み、ドフトエフスキーを読むことで空虚な時間を過ごすという芸当をさえやってのけたのだ。笑えない。

 

 しかし、大学2年から3年にかけて、そんな読書とは違う読書の可能性が少しだけ見えてきた。発見することができたというよりは、発見せざるを得なかったという方が正しいかもしれない。

 大学2年の頃、ツイッターでひたすら自分の悩みやら、社会の不平等やらをグチグチグチグチ言っていた。特に能動的に誰と会うこともなく、ただ家で独りツイッターでグチグチグチグチ言っていたのである。「自分は社会の不平等を告発しているんだ!」という意識を持つことで辛うじて自尊心を保っていた。虚妄の自尊心でしかなかった。

 そんな時に一人だけ(Aさんとしておこう)、「お茶でもしませんか?(ナンパです)」というよくわからない連絡をしてきた人が現れた。僕のツイートに興味があったから誘ってくれたらしい。確かその時は「自分の背後にもう一人の自分がいるような感覚がある。」みたいなツイートを僕はしまくっていたと思う。自分の言葉は誰も興味ないだろうと思っていた僕には嬉しいお誘いであった。嬉しいなんて言葉は綺麗すぎるかもしれない。すがりたいお誘いであったと言った方が正しい。

 そんなこんなでご飯を食べながら会話をしたわけだが、何を話したのか今ではほぼ覚えていない。久し振りに人と会って緊張していたし、Aさんが途中からマシンガントークになったこともあり、ただただ疲弊した記憶しかない。ただ、自分の言葉に興味を持ってくれた人がいるということ、そしてその人が現実で動く姿を見たことが強烈な体験だったのは確かである。

 しかし、強烈な体験だったからと言って良い関係が築けたというわけではない。僕がツイッターでグチグチ言ってたことに興味を持ってくれたという経緯があったので、確かに共通点や共感することもたくさんあったけど、Aさんには僕に理解不可能なところもたくさんあった。後からAさんのツイートやらブログをよく見るようになってわかったことだけど、性犯罪のことやら男体嫌悪のことがよく書かれていた記憶がある。それは僕には全く別の世界の話のように思えた。 

 別の世界の話で自分には関係ないことだから別に考えなくていいや。と思えたらどれだけ楽だっただろうか。自己評価低い孤独マンな僕は、そんな考え方はできなかったのである。なぜならその時はAさんは自分に興味を持ってくれた唯一の人に思われたからだ。それにそこそこ共通点もあったし、そう簡単に考えることをやめることはできなかったのである。自己評価低い孤独マンの悲しい性である。

 だからといって特別何かしようとしたわけではない。そんな人間は簡単には変わらない。僕みたいな屁理屈人間は尚更そうである。しかしほんの少しだけ意識やら行動が変わってしまった部分があるのも確かだ。性犯罪やら男体嫌悪についての情報に多少は意識が向くようになったのである。具体的に言えば、そういうことが書いてあるツイートやらブログやら漫画やら本を読むようになった。最近、『先生の白い嘘』を読んでブログに感想を書いたのも、そんな流れの中で生じたことだ。Aさんが『先生の白い嘘』絶賛していたので。

 

 

 上の記事を書いた時は、もうAさんと会ってから一年半くらいは経っている。もちろん一年半ずっとそのことだけを考えていたわけではなくて、頭の片隅に常にあったくらいのことなのだけど、知らないうちに本や漫画と自分の関わり方が変わってしまっていることに気付いた。

 『先生の白い嘘』を読もうと思ったことを例に取れば、「Aさんのことを知りたい」という動機があった。Aさん以外に自分に興味を持ってくれる人がいない…、という情けない理由が根源であったけれども。そんな僕の自己評価の低さはもういいとして、自分が「この人のことを知りたい」と思う相手がいる時は、その人が絶賛している作品に触れると良いと思う。絶賛するくらいなんだから、その作品にはその人を知るために核心的なことが含まれていると言える。さらに嬉しいことに、こういった読み方をすると、読む本にハズレが無くなる。読んだ本や漫画がつまらなかったとしても、「この人のことを知りたい」という気持ちには関係がない。つまらなかったら、「なんでこんなつまらないものを絶賛してるんだ?」ということを考えることが相手を知るための大事な問題となるからである。

 そういった本の読み方には、以前に僕が陥っていた幻想は既に影を潜めている。僕が以前陥っていた幻想とは、「読むべき小説」「教養としての漫画」「読書は人の心を豊かにする」そんな言葉たちに惑わされることで、その本の中に何かしら大きな意味や価値が宿っており、読むだけでその大きな意味や価値を自分の中に取り込むことができるはずだ、という幻想であった。

 それに対して、「相手のことが知りたい」という動機で本や漫画を読む時に自分にとって大事なことは、その本を読み相手が何を考えたのかであり、自分が何を思ったのかであり、その自分の思いと相手の考えはどのように交わるのだろうか、ということに考えを巡らせることである。その時、本の意味や価値は本の中に宿っているのではなく、本と相手の人間との間、本と自分との間、相手の人間と自分との間の中にこそ宿っている。そういった読書は他者との対話に他ならない。大袈裟に言えば、他者と共に生きていくということである。そういう感覚が欠如しているから、以前の読書の仕方では、いつまで経っても読後に虚無感しか残らなかったのだと思う。

 だから最近では、僕は意識的に、「この人のことが知りたい」と思う相手が絶賛している作品に当たってみることにしている。相手は有名人でも友達でも恋人でも、気になる人なら誰でもいい。でもこの方法には落とし穴があって、「この人のことが好きだから、この人が絶賛していた本を読むぞ!」と意気込むからこそ、「好きな人が絶賛してるから自分もこの本好きだー!」みたいに思考停止状態になる恐れがめちゃくちゃある。ただの依存だ。そういうのはその人のことが好きではなくなった時に何も残らなくなると思う。その時に再び虚無感が訪れるだろう。

 そうならないためにどうすればいいかと考えてみると、意外と難しい。とりあえず、読んだ本の気になるところに線を引いてみたり、読んだ感想をどっかに書いてみたりすることは結構大切だと思う。そうすると面白いことに、数ヶ月、数年経った後、以前に自分が線を引いたところや書いた感想を改めて見直すと、「なんでこの時の自分はこんなこと考えてたんだ?」って不思議で仕方がなくなることがある。そこで過去の自分と今の自分の違いを考えることができる。それは過去の自分と今の自分の対話である。すると、過去の自分と今の自分の差を産みだしたものが、自分と他者との関わりの中から生じたということが事後的にわかったりする。普段は自分が他者に影響を受けているということはそんなに意識できないことだし、孤独で虚無を感じている状態だったら尚更そうだろう。そんな時、対話としての読書は、他者と共に自分が生きているということをほんの少しだけ実感させてくれるものだと思う。

 

参照

鳥飼茜さんの『先生の白い嘘』を読んで考えたこと。フェミ寄りの人のことが気になりつつも、どこか近づきがたさを感じてしまうことについて。 - 自意識をひっぱたきたい