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自意識をひっぱたきたい

自分は異様に空気が読める人間だと思っていたけど、読んでいたのは過剰な自意識でした。

自意識過剰な人間の認識のあり方について

 まず「自意識過剰な人間」とは何ぞやという感じですが、結論から先に述べると、「自意識過剰な人間」=何故だかわからないが外側からの評価や印象でしか自己や他者を認識できず、その代償として自己や他者の内面や考え方のバックグランドに注目がいかず、どこかで孤独を感じざるをえない人間です。

 

 何回か人生の文脈を交わす会をやっていて思ったのは、なんの目標も無いのにも関わらず、とりあえず『努力したい』『天才になりたい』『創造をしたい』『能力がほしい』『趣味がほしい』『熱くなりたい』と口にする人が多いということです。僕はこういう言葉はひょっとして自意識過剰な人間を象徴するものなのではないかと考えています。

 

 こういうことを言う人は大抵、『知り合いの/友達の/有名人のAさんは〇〇についてすごい努力していて、能力があって、趣味があって…、それに比べて自分は何もない…。』みたいなことを決まって言うのです。そこで『Aさん本人は「私は努力してる、能力がある」と言ってるのですか?』と質問すると、これも大抵『Aさん自身は、自分はダメで、努力不足で、自分はまだまだだって言うんですけど』と前置きをした後に、『でも(!)自分からすればそれはすごい努力・能力に見えるし…』という様に、何故かAさん自身が言った言葉の内容やその背景の事情についてよりも、自分から見たAさんの印象の方を優先して主張してきます。

 これは、『Aさんの内側の気持ち・考え』よりも、自分から見たAさんの印象という『外側から見たAさん』の方を、何の根拠もなく優先して真実だと捉えてしまっているということです。(以下では自他の内側の話を青色で、外側から見た自他を赤色で表記します)

 要するに、自意識過剰な人間が言う『Aさんの努力・能力』というのは、『Aさんの内側の気持ち・考え』というものを切り捨てて出来上がっている『自分から見たAさん』の話なのです。そんな『Aさんの努力・能力』というものを基に自分を省みて、「自分には努力も能力も何もない…。」と悩むわけです。ここに錯覚みたいなものがあって、『Aさんの努力・能力』という『自分から見たAさん』を基準にして、『自分の内側』に何かを探し求めようとしてしまっています。この錯覚に気づくために大切なのは、自意識過剰な人間が『自分の内側』のことについて考えているようで、本当は『自分の内側』のことなんて全く考えられていないという点に注意することです。なぜなら『自分から見たAさん』を基準にして、「自分も外側から〇〇のように見られたいな」というものを『自分の内側』に探し求めてしまっているからです。本当に考えていることは『外側から見た自分』であるのに、それを『自分の内側』に見つかると思い込んで探し求めているのです。『Aさんの内側の気持ち・考え』というものを切り捨てて、抽出された『自分から見たAさん』なんていうものは、最初から『Aさんの内側』にすら存在しない、勝手に自分が創り上げた幻想のようなものです。それを『自分の内側』に探し求めるなどという行為は無理ではないにしても、かなり無謀なことだと思います。

 

 その点を踏まえて、自意識過剰な人たちがよく言う『私には努力・能力・趣味・感情が無い』という言葉を正確に表現すると、『私(の内側)には(外側から見た時にそのように見える)努力・能力・趣味・感情が無い』というような意味になっていると思われます。無謀なことをやっていると気づかないと、半永久的に同じことを言い続けるハメになります。問題は、あまりにも『外側からみた時の評価・印象』に重心が寄りすぎていることで、逆に言えば『自分や他人の内側のこと』についてはほとんど注意が向いていない、ということです。

 

 以上のことから、自意識過剰というのは、『外側から見た自分』『外側から見た他人』のことばかり優先して考えてしまい、『自分の内側』『他人の内側』については全く考えが及んでいない状態と言えます。だから相手の言葉に耳を傾けたり、相手の考えを掘り下げようとする代わりに、自分から見た印象の方を無根拠に優先させてしまうし、その外側から見た印象を自分に無理に捻じ込もうとするので、その代償として自分の内側に何も注意が向かなくなってしまうのです。

 

『外側から見た他人』と、それを基に考えた『外側から見た自分』というのは自分一人で勝手に創り上げてしまった幻想であり、そこに他者というものは存在しません。他者と接することができていないから自意識過剰な人間はどこかで孤独を感じざるを得ないのです。また、『自分の内側』『他人の内側』について全く考えが及んでいないので、本当のところ、自分も他人も何者なのかが全くわからないのです。何者かわからない、しかし確かに主体性を持っている他者という存在は恐怖となってしまいます。わかりやすく言えば不審者のようなものです。自意識過剰な人間が住んでいる世界というのは、不審者に囲まれた世界なのです。そんな恐ろしい世界の中で孤独を感じながら、何者かわからない不安定な自分を守ることに必死なのです。不安定な自分を守るために選ばれるお手頃な方法は、対人関係をできるだけ避けたり、不審者である他者を暴力的にカテゴライズして『もうこいつのことは自分はわかっている』という強がりと共に生きることです。これらは結局『他人の内側』を遠ざけ、身勝手な『自分から見た他人』像を再生産し続けるものです。そんな必死な抵抗を、世の人は『被害妄想』や『対人恐怖』と言ったりしますね。

  

自意識過剰な人間に必要なのは、今まで注意を向けてこなかった『自分の内側』『他人の内側』に目を向けていくことだと思います。それぞれの人間には、それぞれの内面世界・考え方・生活史が背後に広がっている、という極々当たり前のことを知ることです。そして今まで自分が勝手に創り上げていた『自分から見た他人の印象』というものが、いかに無根拠で出鱈目なものだったのかを知ることです。『他人の内側』の話を聞いていくと、嫌でも自分との違いが浮かび上がってきます。話を掘り下げても掘り下げても、自分と全く同じ人間なんているはずがありません。他人のことを知り、自分との違いを知っていくことは、『自分の内側』を徐々に照らし出していってくれるものです。人生の文脈を交わす会では、4,5人が作文を持ってきて「私語り」をした後に、お互いについて掘り下げていくコミュニケーションをしているのですが、このコミュニケーションは、『外側から見た自分』『外側から見た他人』の方にばかり振り切れていた針を、『自分の内側』『他人の内側』を感じられる方向に向けていくコミュニケーションだと言えると思います。

なんだか自意識過剰な人間の考え方が悪いんだ!みたいな内容になってしまいましたが、別に本人に責任があるとは思ってないです(自分がそんな人間ですし)。育った環境や形成された価値観が周りと違ったり、他の人には言いづらい経験に逢ってしまい、外側の世界がやたらと綺麗に見えてしまうようになってしまった人もいることでしょう。とりわけそんな経験がなくとも、第3次産業(サービス業)が中心となって外面を飾り立てることが求められ、FacebookTwitterなどのSNS通してプライベートな領域までキラキラ飾り立てることがゴリ押しされている世の中において、『外側から見た自分』『外側から見た他人』ばかり優先して考えてしまい、『自分の内側』『他人の内側』については全く考えが及ばなくなってしまうのにも、それなりの道理があることだと思われます。

だからこそ、そんな飾り立てられたキラキラした世界から少し離れたところで、落ち着いてお互いのことを知るコミュニケーションをすることは割と大事なんじゃないですか、と思ってる次第です。おしまい。

 

参照記事

yamassshi.hatenablog.com